ふるに至りしを以て、任那を崇神天皇の時、始めて服屬せし如く見ゆべく記せる前説は改訂せざるべからずと考ふるに至れり。
又「對蘇國」の條に、之を近江國伊香郡遂佐郷に擬したれども、村岡良弼氏の日本地理志料に遂佐は遠佐の訛誤ならんとの説當を得たりと考ふれば、改めて之を同國蒲生郡必都佐郷に擬せんとす。延喜式神名帳によれば、本郡に比都佐神社あり、又此地方に鳥坂長峰あるによるなり。
又投馬國につきては、近年之を備後の鞆津に擬する説あるは、余も一考すべき者と考ふ。余が前説は周防の佐波が古代より要津として知れわたりたる地なるに重きを置きたれども、鞆といづれか可なるやは、更に考ふべし。
又西高辻男爵の藏せらるゝ張楚金の翰苑卷第卅に倭國の條ありて、其中に魏略を引きて「女王之南又有狗奴國」とあり、狗奴國を女王之南とせるは、恐らく魏略の文を誤解せる者ならんも、之によりて後漢書の「自女王國東度海千餘里。至拘奴國。」とするの誤は益々明らかなり。
猶ほ參考すべき各論文の略目を左に掲ぐ
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白鳥博士「倭女王卑彌呼考」(明治四十三年六月、七月東亞之光第五卷第六號、第七號)
白鳥博士「耶馬臺國に就て」(大正十一年七月考古學雜誌第十二卷第十一號)
橋本増吉氏「耶馬臺國及び卑彌呼に就て」(明治四十三年十月、十一月、十二月史學雜誌第貳拾壹編第拾號、第拾壹號、第拾貳號)
高橋建自博士「考古學上より觀たる耶馬臺國」(大正十一年一月考古學雜誌第十二卷第五號)
三宅米吉博士「耶馬臺國に就て」(大正十一年七月考古學雜誌第十二卷第十一號)
笠井新也氏「耶馬臺國は大和である」(大正十一年三月考古學雜誌第十二卷第七號)
笠井新也氏「卑彌呼時代に於ける畿内と九州との文化的並に政治的關係」(大正十二年三月考古學雜誌第十三卷第七號)
笠井新也氏「卑彌呼即ち倭迹々日百襲姫命」(大正十三年四月考古學雜誌第十四卷第七號)
中山太郎氏「魏志倭人傳の土俗學的考察」(大正十一年三月、五月、八月考古學雜誌第十二卷第七號、第九號、第十二號)
山田孝雄氏「狗奴國考」(大正十一年四月、五月、六月、七月、八月考古學雜誌第十二卷第八號、九號、十號、十一號、十二號)
志田不動麿氏「耶馬臺國方位考」(昭和二年十月一日史學雜誌第參拾八編第拾號)
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以上八氏中、九州説は白鳥博士と橋本氏とにして、餘の六氏は近畿説なり。

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