下げ]
附記
此の一篇は之を發表せし當時に於て、已に頗る專門學者の注意を惹き起したり。余と同時に白鳥博士は邪馬臺九州説を發表せられしが、尋で博士の門人橋本増吉氏は、長篇の論文を史學雜誌に載せて、同じく九州特に筑後川流域説を主持し、以て余が所説を覆さんとせられしも、多くは余と見解の相違より生ぜし異論にして、別に駁議を要すべき所なきを以て、余は敢て之と爭はざりき。唯だ余が滿足せし一事は、此の一時の議論ありし結果、並時の學者が九州説を定論とせし迷信的意嚮より離脱し、再び近畿説と九州説との兩端に就て考慮するに至りしことにして、六七年前、考古學雜誌に於て、已に幾多の議を再發し、有力なる學者にして、復た畿内説を主張せらるゝ人を出すに至り、其の中には九州以東の海路を山陰に考察する説などをも生じたり。之が一定の結論をなすまでには、尚ほ討究を累ねざるべからざること勿論なるも、學者が遠くは本居、鶴峯諸氏の名に震ひ、近くは星野、菅諸先輩の言に雷同せざるに至りしだけにても一の進歩と謂ふべし。今此篇を再び世に問ふに當り、二十年間に於ける史論の變化を囘顧して、中懷に※[#「木+長」、第4水準2−14−94]觸する所なきを得ず、因て聊か篇末に附言すること此の如し。
余が此篇を出せる直後、已に自説の缺陷を發見せし者あり、即ち卑彌呼の名を考證せる條中に古事記神代卷にある火之戸幡姫兒、及び萬幡姫兒の二つの姫兒の字を本居氏に從ひて、ヒメコと讀みしは誤にして、平田氏のヒメノコと讀みしが正しきことを認めたれば、今の版には之を改めたり。
其外、「到其北岸狗邪韓國」の條下に
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此を以て此記事が任那の我國に服屬せる後に出でたるを推すに足る
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といひ、又篇末に
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此の二國(但馬、出雲)の服属は、始めて大和朝廷の海外交通を容易ならしめて、更に任那の服屬を導きたる者なるべし。魏志の記事は任那服屬の後なるべきこと云々
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といひしが、其後余は倭人が支那の戰國の末より漢代に至るまで、半島の南部に定住せしこと、山海經の記する所によつて推定し得られ、姓氏録に載する所、左京皇別吉田連の祖鹽乘津彦命が三己※[#「さんずい+文」、第3水準1−86−53]の地に遣されしは、半島に殘存せし倭人が、他族の壓迫に對して、本國に援助を請ひし者なるべしと考
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