代に相當するかは、尚ほ未だ語て詳かならざるの憾あり。少しく之を補て以て此の考説を結ばんとす。
余は女王國が狗奴國と相攻撃せりといふによりて、其の時期を景行天皇の初年、熊襲親征の事に該當する者と斷ぜんとす。上古に在て語部が語り繼ぎたる史實なりとも、當時の大事を全く語り漏すべき者とは信ぜざるが故に、魏國の記録に著はれたる史實が、我が上古史に全く缺佚せる筑紫女酋の事蹟なりと信じ得ざること、猶かの魏使が筑紫に來りて、全く大和朝廷あることを知らずして歸れることを信じ得ざるがごとし。故に此の魏國まで知れ渡りたる攻撃の事を、景行天皇の御事蹟に當る者と定め、かくて之より下れる世に考へ及ぼすに、神功皇后攝政の期は、那珂通世氏の説の如く、三國史記と神功紀の干支と、續日本紀の菅野眞道等の上表とによりて百濟近肖古王の時とすること當然なれば、此間凡そ百年にして、景行、成務、仲哀、神功、四朝に彌れば必ずしも荒唐に流れざるべし。又之より上に溯りて漢靈帝光和中の内亂を、崇神、垂仁の二朝に於ける百姓流離。或有[#二]背叛[#一][#ここから割り注]崇神紀六年の語[#ここで割り注終わり]により、神祇を崇敬せしこと、武埴安彦の叛、四道將軍の出征、狹穗彦の亂などに當る者とせんには、其間五六十年にして、長短頗る當を得る者の如し。是れ我が古史の紀年を定むるに於て亦甚だ有益なる資料たるべきなり。
今一事の注意すべきは、余が考定せる倭國の使人が田道間守以外の諸人も、皆但馬、出雲より出でし人物たることなり。崇神紀六十年に見えたる出雲大神宮の神寶を貢上せしめたること、垂仁紀八十八年に見えたる但馬出石の神寶を獻ぜしめたることを併せ考ふるに、神寶の貢獻は實に其國の服屬を表する者なるべく、此の二國の服屬は、始めて大和朝廷の海外交通を容易ならしめて、更に任那の服屬を導きたる者なるべし。魏志の記事は任那服屬の後なるべきこと、已に説く所の如くなるを以て、其時外交の使命を奉ぜし者が但馬、出雲二國の名族たりしことは、事情に於て極めて當然なりと謂ふべし。
若し倭人傳に見えたる倭國の習俗其他をも旁證し、又諸韓國との關係にも及ばんには、更に闡發を要する者あるべきも、此の考證已に長きに過ぎたるを以て、今皆之を略し、別に補考を草するの機を待たんとす。
[#地から1字上げ](以上明治四十三年七月「藝文」第壹年第四號)
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