喩之。卑彌呼以死。大作[#レ]冢。徑百餘歩。徇葬者奴婢百餘人。更立[#二]男王[#一]。國中不[#レ]服。更相誅殺。當時殺[#二]千餘人[#一]。復立[#二]卑彌呼宗女壹與年十三[#一]爲[#レ]王。國中遂定。政等以[#レ]檄告[#二]喩壹與[#一]。壹與遣[#二]倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人[#一]。送[#二]政等[#一]還。因詣[#レ]臺獻[#二]上男女生口三十人[#一]。貢[#二]白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹[#一]。
[#ここで字下げ終わり]
この三國志の文は、魚豢の魏略によりて、略ぼ點竄を加へたる者なるが如し。蓋し三國志、特に其の東北諸夷に關する記事は、多く魏略を取りて、魚豢が當時の語として記したる文字すらも改めざる處あり。高句麗王傳に「今高句麗王宮是也」といひ「今古雛加駁位居是也」といふが如き、即ち其例にして、この文中にも今使譯所[#レ]通三十國といへるは、亦此と同一の筆法なり。但だ三國志の作者陳壽が、果して此の記事を魏略より取りて、他書より取らざるやは疑ひ得られざるに非ざるも、三國志の裴松之注に引ける魏略の文、鮮卑の條にも、又西戎の條にも、屡「今」の字を用ゐたる例あるを見、又漢書地理志の顏師古注に、此に掲げたる本文中、「女王國東渡[#レ]海千餘里。復有[#レ]國。皆倭種」といへるを引きて、之を魏略の文とせるを見れば、此の疑は氷釋すべし。既に三國志の倭人傳が魏略より出でたるを決せば、次で決したきは後漢書の倭國傳も、同じく魏略より出でたりや否やなり。後漢書の作者たる范曄は支那史家中、最も能文なる者の一なれば、其の刪潤の方法、極めて巧妙にして、引書の痕跡を泯滅し、殆ど鉤稽窮搜に縁なきの恨あるも、左の數條は明らかに其馬脚を露はせる者と謂ふべし。
[#ここから2字下げ]
倭在[#二]韓東南大海中[#一]。依[#二]山島[#一]爲[#レ]居。凡百餘國。自[#三]武帝滅[#二]朝鮮[#一]。使譯通[#二]於漢[#一]者。三十許國。
[#ここで字下げ終わり]
三國志が取れる魏略の文は、前漢書地理志の「樂浪海中有[#二]倭人[#一]。分爲[#二]百餘國[#一]。以[#二]歳時[#一]來獻見云。」とあるに本づきたるにて、其の「舊百餘國」と舊[#「舊」に白丸傍点]字を下せるは、此が爲にして、即ち漢時を指し、「今使譯所通三十國」といへる今[#「今」に白丸傍点
前へ
次へ
全37ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング