子の年が來る、甲子は革令と言ひ又革政ともいふ、或は戊午の年を革運といひ、それから辛酉に革命があり、甲子に革政があるとして辛酉を蔀首とする説、戊午を蔀首とする説と、いろ/\ありますが、其後甲子にも必ず改元することになりました。清行は丁度醍醐天皇の延喜元年が辛酉に當つて居りましたので、そこで今年は辛酉革命の時に當つてゐるから御用心なさいといふことを菅公に言つたのです、それで昌泰といふ年號が延喜に改元されたのですが、其説が非常に有力なものとなりまして遂にそれが代々行はれるやうになつたのです。この辛酉といふ年は六十年目毎に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて來て、それから三年經つと甲子といふ年が來る、その時は必ず改元が行はれます。それはずつとのちまで續いて、近代まで行はれてゐましたが、最近では文久元年が辛酉でありまして、元治元年が甲子であります、其の度毎に改元して居ります、勿論戰國時代あたりの朝廷でさういふやうな儀式の出來なかつた時には多少異例もありますが、其他は延喜以來、辛酉革命、甲子革令には必ず改元して居ります。ですから私共は日本の年號を記憶するのに、その事を知つて置くと大變都合がよく覺えよいのです、私は國史家でありませんので年號を宙に覺えて居るのは困難でありますから、この革命革令をたよりにして徳川時代位の年號年數は殘らず記憶するやうに致して居ります。
 さういふわけで此辛酉革命、甲子革令といふことが大變有力な説になつてゐたのでありますが、後醍醐天皇の時になつて是に反對説を出した人があるのです、といふのは後醍醐天皇の元亨元年が丁度辛酉だつたのですが、其時に算博士の三善朝衡と小槻言春とが例の如く革命勘文といふものを上りましたが、大外記中原師緒といふ人が此辛酉革命、甲子革令の説に反對説を出したのです。その理由とする所は、清行の説は緯書に依つたものであるが、神武以來、何の書にも革命といふ説はなかつた、支那にしても經典には載つて居らない。清行が據つた所の緯書の文といふものは今はない、今はなくても全くなかつたといふ譯ではないが、要するに緯書は鄙近で、聖人の書でないといふことを學者が疑つてゐる程である、術數の學といふものも聖人の鄙しむ所である。たとひ又運數は禍に當つて居つても天子に徳さへあらばそれは消えるべき筈のものである、天子の徳によつて目出たい事が出てくるものである。だから緯書の説はあつても、革命は畏るゝに足らない、又信ずるに足らない、今日より群疑を決して、法を將來に垂れんことを請ふと申して、辛酉革命の改元廢止論を唱へました。これは當時としては非常に突飛な議論で新しい考へであつたらうと思ひます、勿論これも宋學の思想が入つて居ります。併し當時即ち後醍醐天皇の時には其説が行はれないで、衆議に從はれてやはり改元になりました。それから甲子の時にも亦改元となり、其後も依然として辛酉革命、甲子革令は日本の歴史において行はれて居りましたが、ともかくも當時において斯ういふ新らしい學説を立てゝそれを言ひ出すといふことはよほど偉いことであります。實際まかり間違へば其當時の考へでは改元しなかつたために地震があつたとか、雨が多かつたとか、騷亂が起つたとか言ふやうな色々な苦情が起る、革命説を採らなかつたから斯ういふことが起つたのだといふ風に文句を言はれようといふやうな際において、ともかくもそんな迷信は役に立たんものだといふ説を出したといふことは、よほど面白いことであります。これは詰り當時後醍醐天皇が宋學、禪學をやられたといふ事の外に、一般の學問上においても革新の機運があつたといふことの一つの有力なる證據だと思ひます、私はこのことをよほど面白い現象だと思ひます。
 さういふ風に有ゆる方面に革新の機運があつて、從來の説を故なく信ずるといふ事はなくなつて來て居つたのであります。要するにこれは内部における革新の機運でありますが、内部にさういふ考があるとやはり外部に對しても自然さういふ考が起つて來るといふのは當然だらうと思ひます。所が丁度其頃に不思議にも外部においては蒙古襲來といふ一大事件が起つて居るのであります。蒙古襲來といふことは當時では非常な事でありまして、一國の存亡に關するやうな大變なことでありました。さうして龜山上皇が親から國家人民に代はられると言うて御祈願を遊ばされたやうな事もある位であります。近頃國史家の説では、此の御祈願は後宇多天皇がなされたのではないかといふことであるが、勿論それは後宇多天皇の御時代でありましたが、後宇多天皇は八歳で天子の位に即かれて、十二三年その位に居られたのですが、其間龜山上皇が實際の政治をやつて居られたのですから、御祈願の張本はやはり龜山上皇で入らせられたかも知れぬと思ひます。開闢以來の大事件たる蒙古襲來を防禦しようといふのですから、有ゆる神佛を信仰して何んでも國難を免れようといふので、伊勢とか石清水の八幡其他に御祈願遊ばされたのです。當時の記録によると、何か大變奇瑞があつて、その奇瑞のあつた時刻が丁度九州に大風が起つて蒙古の船が散々になつた時だつたといふやうな事がありましたが、此等の事が外部に對する文化上の獨立の考が出來るのに大變關係があつたものと思はれます。
 此の石清水八幡で尊勝陀羅尼法を修せらるゝ時、その最も主なる人は奈良の西大寺興正菩薩といふ方であつたやうでありますが、其時の啓白にも、蒙古は是れ犬の子孫、日本は即ち神の末葉(笑聲起る)、神と犬と何ぞ對揚に及ばん、縱ひ皇運末になり政道誠なく、神祇非禮をとがめ、佛天虚妄を惡みたまふとも、他國よりは我國、他人よりは吾人、爭でか捨てさせ給ふべきといふので、いやでも應でも助けて貰はんければならぬといふにあつたやうであります、さういふ祈願は非常に面白い思想だと思ひます。勿論これは蒙古に對する敵愾心からではありますが、こゝに面白い現象が起つてゐるのであります、といふのは今迄日本は支那を以て日本文化の師匠であると仰いで居つた所が、其師匠と仰いで居つた支那が、犬の子孫である所の蒙古のために亡ぼされてしまつて、其蒙古は更に日本にまで襲來し、さうして日本の前には國難が横つて居つたわけであるが、とにかく伊勢の大神宮や石清水八幡、三千餘座の神々に祈願して神の子孫が犬の子孫に勝つたわけであります。そんなわけで今迄貴いと思つて居つた支那も、犬の子孫に統一されるやうではさう大したこともないといふので、遂に支那といふものが日本人に取つてあまり有難くなくなつた、そして其支那を亡ぼした所の蒙古をも日本が神の力で退けたのですから、日本はよほど偉いのだといふので、其神の保護を受けるといふことはよほど偉い事に思はれただらうと思ひます。殊に後宇多天皇は日本は密教相應の國である、密教が盛んになれば日本も盛んになり、密教が衰へれば日本も衰へるといふことを御遺告の中にも書かれて居る位で、密教が國體に一致して出來上つた國であると考へられて居りました、今日の言葉で申せば、つまり最上の文化と最上の國家といふものは一致して居るものだといふ考を持つて居られたのです。それが果して當りまして今の通り神風の效驗があつたのでありますから、當時の人には非常にさういふ思想が強く響いたのであらうと思ひます。
 是が又他の事情といろ/\關係しまして、こゝに『日本は神國なり』といふ考を起させるに至つたのです。當時伊勢の方に一種の神道が出來て居りました、これは外宮の神主|度會《わたらひ》氏から新に出て來た所の神道でありますが、これが北畠親房の學問に影響してゐるのであります。親房は佛教にも深い人でありますが、神道においては新しく起つた所の度會家の神道を採用したのであつて、自分でも神道に關する著述をして居ります。だから神皇正統記の一番眞先の書き出しには、『大日本は神國なり』と書いて居ります。これが神皇正統記の第一句であります。さうして日本は神國だから尊いといふことを言つて居ります。あの天竺が天神の子孫から成立つて居るといふ事は日本と類似して居るが、後に道に變化があつて、勢力あれば下劣の種も國主となり、五天竺を統領するもあり、又支那も殊更亂りがはしい國で、始終天子の系統が變り、力を以て國を爭ひ、民間より出でゝ位に居たるもあり、戎狄より起つて國を奪へるもあり、累世の臣として君をしのぎ讓を得たるもある、日本だけは全く違つて萬世一系であるといふことを論じて、さういふ神の御末であるから今日の皇統も正統の天子でなければならぬといふことを結論にして、そこで南朝が正統であるといふことを明かにして居るのでありますが、親房には實にそれが信仰であつたらうと思ひます。此人の政治上の經綸は皆新しいことであるが、其信仰は非常に固い信仰であります。これは古い思想ではなく、當時我國に起つた所の新らしい思想だらうと思ひます。
 さういふわけで、此日本が世界中一番尊いのだといふ思想は當時において新思想と言つてよからうと思ひます。詰り前には支那を崇んで居つたが、支那は詰らない、印度も亦詰らない、日本くらゐ尊い國はないといふのが當時の新思想であつて、それが根本になつて其頃文化の獨立といふものが出來たのだと思ひます。親房の經綸が新しいと申しましても、根本から其當時の社會を打ちこはして低い者が上に立つて勢力を揮ふのを善いとしたのではありませぬ。即ち親房の議論といふのはよほど面白いもので、今日に應用してもいゝと思ふ點があります、例へば勳功があつたからと言つて勳功のために官位は進めらるべきものではない、勳功は勳功として別に賞すべきものである、昔の日本の制度には勳位が十二等あつて勳功のあるものに勳階をやる、官職は官職として、學問もあり、地位もあり、才徳もあるものに授けてゐたのである、それが中古以來代々の家柄にやるやうになつたが、其家柄の内でも其才があり、其學問のあるものにやるのが正しき政道である、勳功があるからと言つて政治の事を知らない武人などに政治をやらせるのは大いなる間違である、つまり今日で言へば軍閥反對です(笑聲起る)。さう云ふ立派な見識を持つて居つたが、一面又却々新らしい運動もやつたものであります。勿論是は後醍醐天皇の思召でもありましたが、一體官職といふものは文武の道二なるべからず、公家が武職にも任ずるのが昔の法だとあつて、親房の子は多く武事に從ひ、自分も東國に在つて、戰爭をもした人でありました、さういふ風な却々面白い經綸を持つて居りました。併し日本全體の事では日本國家の根本は動かすべからざるものだとして、而も其動かない所が日本の尊い所だ、そこに日本といふものは天竺とか、支那とかいふものと異つた日本獨立の經綸もあり、日本獨立の社會組織もあり、日本獨立の學問思想もあるのだと斯う考へたのであつて、親房は殆ど當時の代表的の人物と言つていゝ、又一人で其當時の思想を代表して居つたと言つてもいゝのです。況んや後醍醐天皇其他の人々が皆さういふやうな考を持て居られたのですから猶更のことです。それで支那の學問の中で、それに適當した宋學を輸入したのであります、そして銘々の頭で古い本を解釋して從來の傳統的の學問には滿足しないといふ所から宋學が入つたのであります。この根本は單に宋學といふやうな支那のものに感服したのではなく、すでに日本の思想といふものを獨立的に打ち立てよう、文化的獨立をしようといふ考が暗々裡に動いて居つたので、それでさういふことが大いに用ゐられるやうになつたのであらうと思ひます。これが日本の文化に重大なる關係を持つて居るのであります。
 併しすべて平和で來た時代のみが文化の盛んになる時ではありませぬ。引續き足利時代となり、其中頃から戰國となつて、文化の上においても殆ど暗黒時代を現はしたが、其間に自然に獨立思想がだん/\行亙つて、さうして日本は神國であつて日本は特別な國體だといふことが、この暗黒時代において一般に浸みわたるやうになつて來たのであります。此事は私が應仁の亂のお話をした際に、皇室が衰微して其の極に達して居る時、皇室中心の思想が足利の末半分ばかりの時において一般に行亙つたと
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