いふ事を申しましたが、龜山、後宇多天皇頃から南北朝の始めに起つた所の新思想は、足利時代の暗黒時代を經ても其思想は決して消滅しなかつたやうであります。古い文化は足利時代に滅亡しましたが、新たに起つた所の思想はどこまでも一貫して、それが到頭徳川時代まで來たのであります。徳川時代になるといふと、外國の學問をする人でも、日本を中心に考へる思想が非常に盛んでありまして、それが詰り明治維新、今日の日本を形造る根本になつたのであります。是が非常に重大なることで、しかも大覺寺統の後宇多天皇、後醍醐天皇と密接なる關係を持つて居るのであります。それで南朝が正統とか大覺寺の興隆とかいふことを別としても、私共の考へる所では、ともかくさういふ機運が動き、さういふ機運に相當する龜山、後宇多、後醍醐三代の天皇、或は北朝の花園院の如き名君がだん/″\世の中に出られたので、自然公家の中にもさういふ人が出たのだと思ひます。さうしてその以前から武家といふやうな下層から頭を持ち上げて來たものが、自然に日本の社會組織を改革して行つたのであり、詰り極く官職の低い者が日本の權力を執るといふやうな時代が出來てあつたのでありますが、最後に殘つて居つた皇室とか公家とかにも革新機運が行亙つて來たのが、丁度此時代であります。さうして是は不思議にも大覺寺統即ち南朝といふやうなものと關係を持ちまして、後宇多天皇の復古思想から、次には其延長である所の日本中心思想といふものになつて、さうして日本文化獨立の根本をこゝに築き上げたのであります。このことは私の國史に對する淺い智識で考へましても、多少の材料を以て證據立てることが出來るのであります、それで此の機會において斯ういふお話をしたのであります。
 所が面白いことはこゝに一つの著しい事件を生じて來たのです、丁度南北朝の中ごろ以後南朝はよほど衰微して居つたが、兎に角皇子方が東西にお働きになつて、東には宗良親王、西には懷良親王が征西將軍として九州にお出でになつた。其時代に支那では元明の革命があつて、蒙古が亡びて明が起つた。その時に明の使者が九州に到着したが、支那人の書いたものによると、其時征西將軍は自分が日本の國王だと言つて支那の使節に應對した、處が支那の使者は京都に又持明院統の天子があることを聞いて、そこへも使者をやつたといふ事が書いてありますが、とにかく其時支那では日本國王の不恭を責めて征伐せんと欲するの意を示した處、其時に懷良親王からやつたといふ返事、支那ではこれを日本の上表と言つてゐますが、それが支那の本の殊域周咨録とか、使職文獻通編とか、明史などにも出て居ります。
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臣聞三王立極。五帝禪宗。惟中華而有主。豈夷狄而無君。乾坤浩蕩。非一主之獨權。宇宙寛洪。作諸邦以分守。蓋天下者乃天下之天下。非一人之天下也。臣居遠弱之倭。偏小之國。城池不滿六十。封疆不足三千。尚存知足之心。故知足者常足也。今陛下作中華之主。爲萬乘之君。城池數千餘座。封疆百萬餘里。猶有不足之心。常起滅絶之意。天發殺機。移星換宿。地發殺機。龍蛇起陸。人發殺機。天地反覆。堯舜有徳。四海來賓。湯武施仁。八方奉貢。臣聞陛下有興戰之策。小邦有禦敵之圖。論文有孔孟道徳之文章。論武有孫呉韜略之兵法。又聞陛下選股肱之將。起竭力之兵。來侵臣境。水澤之地。山海之州。是以水來土掩。將至兵迎。豈肯跪塗而奉之乎。順之未必其生。逆之未必其死。相逢賀蘭山前。聊以博戲。有何懼哉。※[#「にんべん+淌のつくり」、第3水準1−14−30]若君勝臣輸。且滿上國之意。設若臣勝君輸。反作小邦之恥。自古講和爲上。罷戰爲強。免生靈之塗炭。救黎庶之艱辛。年年進奉於上國。歳歳稱臣爲弱倭。今遣使臣答黒麻。敬詣丹※[#「土へん+犀」、128−4]。臣誠惶誠恐稽首頓首。謹具表以聞。
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此書信にはもとより支那人の手入れがありませうから、どこまで信用して善いかは疑問であるが、大意は變つて居りますまい。即ち日本はあなたの國に較べると國が小さい、あなたは中華の主となつて大きな國に居られる、併しもし戰爭でもしようといふならば決して辭するものではない、あなたの方から兵を遣はして我國を侵すといふことがあつても、其兵隊が來たからと言つて跪いてこれを受けるといふことはしない、あなたの國に從つた所で生きると決つては居らぬ、逆らつた所で死ぬと決まつたものでもない、いつその事賀蘭山の前に行つて一と博奕打つて見ようではないか、何ぞ恐るゝに足らんやなんて言つて、そのあとへ、併しこちらが勝つてあなたの方が敗けたら自分の國の恥ではあると、ずゐぶん大きなことを言つてやつたものです(笑聲起る)。それで支那でも全く驚いたのです。尤もこれは蒙古襲來の時の我邦のやり方に驚いて居つたからでもありませうが、とにかく從來支那のぐるりにあつた諸外國は、何れも支那に對しては中國の君主として尊敬して居つたものであるのに、蒙古の時に使者を拒んだりしたので向ふが驚いた。支那では海外は皆自分の臣下扱ひにして皇帝何々の國に諭すといふ風に手紙なども書いて居つたもので、それが當り前だつたのです。併し日本に對してはよほど考へたものと見えてさうはしなかつた、即ち大蒙古皇帝書を日本國王に奉ずといふ對等の體裁であります、さうしておしまひの所に不宣白と書いてあつた。そこで其時の記録にも臣とせざることを示すなりと書してあります。是位に優遇したならば日本でも喜んで來るだらう、體裁上日本に使者をやりさへすれば朝貢するだらうと思つた。所が日本では返事をしない、度々來るといふので到頭使者を斬つてしまつた。そこで是は途方もない奴だと思つて遂にあの大きな騷動を起すやうになつたのですが、それも失敗した。その時にすでに蒙古の天子は驚いて居つたわけです。
 所で今度は明の太祖が自分は蒙古の天子を追出して中國を囘復したのだから、日本へ使者をやつて日本から又朝貢をさしてさうして體裁を作らうと考へた。そしてもし來なければと言つて幾らか威しの文句を言つてよこしたのです。さうするとそれを懷良親王が見られて、戰爭をするならしようといふ手紙をやつたのです。此時の手紙は日本で言へば、蒙古襲來の時に取つた態度よりも、よほど激しい態度であります、蒙古の時には喧嘩を買つたやうな手紙を出したのではなく唯返事を出さなかつたのです、それを度々來るからうるさいといふので使者を斬つたのです。所が今度のは勢ひがよかつたと言つても九州全體を統治して居つたといふわけではなく、僅かな土地城池を守つて居つたに過ぎない所の南朝の懷良親王が、斯ういふエライ手紙をやつたのです。而も始めから喧嘩を買つた手紙をやつたのだから驚きました。しかし明の太祖も悧巧で、忽必烈のやうな失敗をするのは詰らぬと考へて、自分が死ぬ時に遺訓といふものを書いた、それにはいろ/\な事を書いてあるが、其の中に海外で征伐をしないといふ國が書いてあります、その中に日本が眞先きにある(笑聲起る)。
 斯ういふことで日本が支那に對して氣焔を吐くことが蒙古襲來以來流行つて來たのであります、これは詰り日本の根本の文化の獨立が出來上つたからだと言つてもよいと思ひます。これは丁度蒙古襲來といふ時が後宇多天皇の始めでありまして、そして此の懷良親王の手紙が後龜山天皇の時でありますから、ともかく外國に對する思想の獨立、文化の獨立といふものが大覺寺統を一貫して終始して居ると言つてもよいのであります。これだけのことを申しておきます。(拍手)
[#地から1字上げ](大正十一年五月講演)



底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年4月10日発行
   1976(昭和51)年10月10日第3刷
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
   1930(昭和5)年11月発行
初出:講演
   1922(大正11)年5月
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年11月28日公開
2006年1月22日修正
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