立といふやうなことを考へたのではなく、最後にそこへ到着したのであると私は考へます。
さて此革新機運は一面において後醍醐天皇の時に宋學の輸入となります、是は學問上における一つの非常なる變化であります。即ち漢學の方で申せば從來は日本朝廷の學問は漢唐以來の相傳の學問を皆繼續して來たのですが、此の時分から宋學が入つて來たのです。これは勿論禪宗が入つて禪宗の坊さんが其時流行であつた所の宋學の影響を受けて來たからさういふのが基になつたのではありませうが、とにかく宋學が來たのです。普通宋學といふと程朱の學問に限りますが、私はもう少し意味を廣く考へておきたいと思ひます。程子朱子より以前又は其以外にも、支那では北宋の時分にいろ/\變つた新しい思想が出來て居ります、例へば司馬温公の資治通鑑などは從來の歴史を一變した所の有力なる歴史であつて、是はやはり當時の思想によほど影響して居ります。ともかく支那の從來の學問に對して新しいことを考へる所の思想が禪宗の坊さんたちによつてだん/\日本に間接に入つて來てゐたのが、到頭後醍醐天皇の時分になつてそれを本統に研究する人が出て來たのであります、それは誰かといふと有名な北畠玄惠といふ人であります。この玄惠法印といふ人はもと/\天台の方のことを稽古した人でありませうけれども、この宋學の本を讀んで程子、朱子の學問をされたことが、其當時行はれた所の無禮講といふやうなものに結び付けられて來たのであります。さういふやうな事は太平記に書いてあることで、太平記は小説見たいなものであるから事實は不確かであるといふ風に從來は言ひ傳へられて居つたのですが、近年になり、花園院宸記――御日記を研究するやうになりましてからは、其中にそれに關することが書いてあることが分つたのです。さうして後醍醐天皇は玄惠法印に講釋をさせられます。從來の學問といふものは清家とか菅家とかいふ風に相傳の學問をする人に限られて居つたが、此時に特別に玄惠法印といふやうな人を召されて、さうして講釋をさせられるといふことになつたのです。そして花園院宸記によると、其時銘々の意見によつて勝手な説を作るといふことになつたが、あれは困るといふやうなことを書かれてあります。ですから其時は宋學の影響を受けて古い經書などを自分の頭で新しい解釋をするといふ風が起つて居つたと考へられます。是は鎌倉以來禪學が流行して從來の眞言とか天台とかいふ傳統的佛教に對して新しいことを考へる佛教が流行つた時に、漢學においてもさういふことが起つて來たのであります。後醍醐天皇といふ方は漢學においても宋學をやられ、佛家の學問においても單に從來の傳統的の學問のみならず、新しいことをやつて禪宗をお好みになつた。これは親房の書いてゐる所によつても、從來の眞言とか天台とかいふ相傳の學問の外に、當時新しく入つて來た所の禪宗などもやられたといふことが明かに分るのであります。
さういふ次第でありますから、後醍醐天皇は學問上において新思想家でいらつしゃるわけで、其點は後宇多天皇と幾らか違つて居ります、即ち後宇多天皇は從來の密教といふやうなものを根本的に研究し、密教の復古的方法まで進まれたのですが、後醍醐天皇はそれより更に新しい思想で解釋した所の佛教及び漢學をやらうといふ所まで進められたのであります。即ち御父子の間に御考の程度の違つた點があつたわけでありますが、併し前の後宇多天皇の如く復古思想によつて革新機運を起す所の篤學なるお方がなかつたならば、この後醍醐天皇のやうな方が俄かに飛び出して來られるわけはないのであります。やはり後宇多天皇の學者であらせられたことが大いに後醍醐天皇の新思想に關係があるのであります。
尚さういふ風な思想は啻に南朝の方々のみでなく、北朝系の花園天皇などにも同樣あらせられたやうであります、即ち花園天皇はやはり禪宗がよほどお好きであつて、當時の思想上においては持明院統の天子であらせられながら、やはり後醍醐天皇に對してよほどの同情を持つてゐられたやうであります。これが妙なことに現はれて居ります、それは何かといふと書風の上に現はれてゐるのです。この書風に就いては今日もあちらに陳列してありますが、あれを見ると龜山天皇など如何にも從來の平安朝から鎌倉に相傳した所の日本風の柔かいおとなしい書風でありますが、もうすでに後宇多天皇になるとその御消息などを拜見しましても其書風は當時の書風ではない、假名にしても眞名にしてもいかにも豁達で、今までのやうなおとなしい書風に甘んじて居られなかつたといふことが明かに分ります。それが花園天皇になると更に豁達であります。殊に後醍醐天皇の御書風において最もさうであります。それについてその頃有名な青蓮院の尊圓法親王即ち持明院統の伏見院の御子で後伏見院、花園院と御兄弟で入らせられる尊圓法親王が書に關する入木抄といふ著述をして當時の書風の批評をして居りますが、その批評を拜見すると、大覺寺統即ち南朝派の書風を幾らか攻撃する樣な態度でお書きになつて居ります。近頃宋朝風の書風が書かれるがそれは自分らの取らぬ所である、さうしてさういふものがだん/\皇室の御書風に入つて來て後醍醐天皇もこれをお書きになつてゐると、幾らか攻撃する意味で言つて居ります。これによつて見ても大覺寺統即ち後醍醐天皇の書風が當時新たに入つて來た所の宋風の書風であつたといふことが分ります。所が其尊圓法親王其人の書風がどうかといふと、此人がすでに從來の書風に甘んぜられない。つまり從來は日本の書風を統一して居つた家がありました、丁度吉澤博士のお話にもあつた通り二條家といふものが和歌の風を統一した如く、書道においても書風を統一して居つた家があつたのです、それは世尊寺といふ家でそれが書風を統一して居つたのであります。そこで伏見院も後伏見院も世尊寺風の書をお書きになつて居つたが、尊圓法親王のは別派で全く新しい書風を書かれた。勿論尊圓法親王は宋朝の書風を採られたのではないけれども、とにかく後宇多天皇の復古の學問におけると同樣に復古的書風といふものをやらうといふお考があつたといふことが分ります。尊圓法親王の書風は世尊寺の流派の元祖である行成卿の書風を飛び越えて道風の書風を目的として居つたやうであります。その尊圓法親王は南朝の書風を幾らか攻撃してゐるやうであるが、御自身がすでにその書風において一變化をして居ります。それで花園天皇の書風も宋朝の書風を加味して居つて、南朝の方の書風と類似して居ります。これは思想においても同樣であるが、書風においてもやはり同樣でありまして御兄弟でありながらすでにさういふ違ひが生じて居つたのであります。
斯ういふのが凡て當時の學問、藝術に關係して居る所の有ゆる革新の機運でありますが、これはよほど面白い事であつて、内部においてすでに昔から有り來つた傳統的のものに安んぜずして、何でも革命的にやらうといふ機運があつたといふことが分ります。その他最も著しい政治上に於いても同樣の事がありまして、あの北畠親房といふやうな人は其點において非常に偉い考を持つて居つたやうであります。神皇正統記も唯國史の教科書として位に讀んで居れば何でもありませんが、實はあれはあの人の政治に對する革新意見書であります。あれを見ると單に昔からの記録をもとにしてあり來りの歴史を書かうとしたものでないことが分ります。勿論皇室の正統が南朝にあることを表明するつもりもあつたに相違ありませんが、單にそれのみでなく、非常な經綸を以て書いた堂々たる當時の日本の政治に對する革新の意見書と言つていゝのです。其根本は勿論親房が司馬温公の資治通鑑即ち君主の政治の參考になるやうに書いた所の資治通鑑を讀んだ所にあるでありませうが、この正統記は單に昔からの歴史を天子にお教へ申上るといふだけでなしに、昔の變化を述べて新しい時代の天子は如何なる覺悟でゐられ、如何なる方法でなさるがいゝかといふことに對する自分の意見を悉く現はした處の著述であります。だから日本第一の歴史家と言つたら此北畠親房をあげていゝと思ひます。日本の歴史の内で自分で立派な經綸的の意見を以てそれを根本として書いたものは少い、其内で親房の神皇正統記は實に見上げた堂々たる歴史であり、同時に當時の革新意見書であります。殊にその正統論を擔ぎ出すところを見ると、これは單に司馬温公の資治通鑑のみならず、宋元時代支那に行はれた正統論を承知して居つただらうと思ひます。たとへば朱子學派の本である通鑑綱目といふやうなものは、當時支那でどれ程流行したか分りませんから、それが日本に來て親房が見られたかどうかといふことは疑問ですが、兎に角宋の時代に朱子學が發達すると同時に正統論といふものが歴史の上においてよほど大事な事になつたのは確かであります。それを承知して居つたので本の名前も神皇正統記といふ風にしたのであらうと思ひます。是は決して想像ばかりではなく、兩方の時代を比較し、内容を較べて見ると、さうあるべき筈だと思ひます。
さういふ次第でありまして、凡ての事が革新の機運を持つて居つたのでありますが、天子としてはすでに大覺寺統の後醍醐天皇のみならず、持明院統の花園天皇なども入らせられ、それに仕へた所の有力なる公家達にも亦さういふ風な氣分を持つた人が相當あつたやうであります。私はあの時分の人物としては日野資朝といふ人が大變好きです、尤もこれは若い時分好きだつたのですから、老人の今となつて若手の偉い人が好きだと言つても少し年寄の冷水のやうな嫌がありますが、とにかく日本であれ位痛快な人物はないと思ふ位であります。是が其の當時玄惠法印に新しい學問を受け、又禪學をもした人で、のみならず革新の氣分に於て非常に著しかつた點があります。資朝の痛快な事は、徒然草に爲兼大納言入道が北條方からめしとられて、六波羅へつれ行かれるのを一條邊で見て、資朝は「あな羨し、世にあらんおもひ出、かくこそあらまほしけれ」と言つたといふことが載せてあります、却々面白い。それから西園寺内大臣實衡といふ人と禁中に宿直した時に、西大寺靜然上人が腰かゞまり、眉白く、まことに徳たけたるありさまにて、内裏へ參られたりけるを、實衡「あなたふとのけしきや」とて、信仰の氣色であつたので、それを見た資朝は「年のよりたるにて候」と言つた、其後年老つて毛のはげたむく犬を實衡に送つて、「この氣色たふとく見えて候」と言つてやつたといふことですが、さういふ風な痛快な人です。それで後醍醐天皇は言はゞさういふ謀反氣の滿ち/\た人物で取り圍まれてゐたわけであつて、是が後醍醐天皇をしてあの北條氏を亡ぼさしめ、さうしてたとへ一時なりとも建武中興といふやうな大改革をなさしめた所以であります。
勿論さういふのが當時の一般氣風であつたでありませうが、それは單に公家の人物のみならず、其外の學説思想などにおいても、同樣に其氣分が現はれて居るのであります。こゝに一つ其例を擧げて見ますと、昔から日本には相傳の學説ともなり、一種の信仰ともなつた事に妙なことがあります。それは改元する――年號を改めるに就て、一つの重大なる事柄としてある革命といふことであります。字は今日の革命思想などいふ革命でありますが、意味は一寸違つて居ります。天地間の運數を考へてどういふ時には革命の氣運が來るといふ學説で、これは漢以來行はれてゐる緯書の説から出たものであります、殊に易緯といふものから出たので、すべて天地間のことを周易の革卦から割り出し、五行の運數、干支などで判斷した考であります。それを日本で應用し始めたのは菅公時代の三善清行といふ人で辛酉革命、甲子革令といふことを申したのであります。その辛酉の年といふのは六十年目毎に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてくるわけですが、その時は天地革命の運數に當つてゐるのであるから、年號を改めて、天子とか大臣とか言ふ者は非常に注意しなければならぬといふので、此の六十年の二十二倍の年數を一蔀といふのである、それで神武天皇即位紀元の辛酉から齊明天皇の六年庚申までを一蔀完終として居る。辛酉から三年經つと甲
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