とか天台とかいふ傳統的佛教に對して新しいことを考へる佛教が流行つた時に、漢學においてもさういふことが起つて來たのであります。後醍醐天皇といふ方は漢學においても宋學をやられ、佛家の學問においても單に從來の傳統的の學問のみならず、新しいことをやつて禪宗をお好みになつた。これは親房の書いてゐる所によつても、從來の眞言とか天台とかいふ相傳の學問の外に、當時新しく入つて來た所の禪宗などもやられたといふことが明かに分るのであります。
 さういふ次第でありますから、後醍醐天皇は學問上において新思想家でいらつしゃるわけで、其點は後宇多天皇と幾らか違つて居ります、即ち後宇多天皇は從來の密教といふやうなものを根本的に研究し、密教の復古的方法まで進まれたのですが、後醍醐天皇はそれより更に新しい思想で解釋した所の佛教及び漢學をやらうといふ所まで進められたのであります。即ち御父子の間に御考の程度の違つた點があつたわけでありますが、併し前の後宇多天皇の如く復古思想によつて革新機運を起す所の篤學なるお方がなかつたならば、この後醍醐天皇のやうな方が俄かに飛び出して來られるわけはないのであります。やはり後宇多天皇の學者
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