北畠玄惠といふ人であります。この玄惠法印といふ人はもと/\天台の方のことを稽古した人でありませうけれども、この宋學の本を讀んで程子、朱子の學問をされたことが、其當時行はれた所の無禮講といふやうなものに結び付けられて來たのであります。さういふやうな事は太平記に書いてあることで、太平記は小説見たいなものであるから事實は不確かであるといふ風に從來は言ひ傳へられて居つたのですが、近年になり、花園院宸記――御日記を研究するやうになりましてからは、其中にそれに關することが書いてあることが分つたのです。さうして後醍醐天皇は玄惠法印に講釋をさせられます。從來の學問といふものは清家とか菅家とかいふ風に相傳の學問をする人に限られて居つたが、此時に特別に玄惠法印といふやうな人を召されて、さうして講釋をさせられるといふことになつたのです。そして花園院宸記によると、其時銘々の意見によつて勝手な説を作るといふことになつたが、あれは困るといふやうなことを書かれてあります。ですから其時は宋學の影響を受けて古い經書などを自分の頭で新しい解釋をするといふ風が起つて居つたと考へられます。是は鎌倉以來禪學が流行して從來の眞言
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