であらせられたことが大いに後醍醐天皇の新思想に關係があるのであります。
尚さういふ風な思想は啻に南朝の方々のみでなく、北朝系の花園天皇などにも同樣あらせられたやうであります、即ち花園天皇はやはり禪宗がよほどお好きであつて、當時の思想上においては持明院統の天子であらせられながら、やはり後醍醐天皇に對してよほどの同情を持つてゐられたやうであります。これが妙なことに現はれて居ります、それは何かといふと書風の上に現はれてゐるのです。この書風に就いては今日もあちらに陳列してありますが、あれを見ると龜山天皇など如何にも從來の平安朝から鎌倉に相傳した所の日本風の柔かいおとなしい書風でありますが、もうすでに後宇多天皇になるとその御消息などを拜見しましても其書風は當時の書風ではない、假名にしても眞名にしてもいかにも豁達で、今までのやうなおとなしい書風に甘んじて居られなかつたといふことが明かに分ります。それが花園天皇になると更に豁達であります。殊に後醍醐天皇の御書風において最もさうであります。それについてその頃有名な青蓮院の尊圓法親王即ち持明院統の伏見院の御子で後伏見院、花園院と御兄弟で入らせられる尊圓
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