で行つて、最後は皇室並に公家の中にさういふ思想、さういふ社會状態に一致するやうなお方を出すやうになつて來たやうに考へます。それが即ち丁度大覺寺統の龜山、後宇多以下南朝系の天皇の方々の時で、さういふ風な考を持つた人が多かつたやうであります。さういふ人達の間には明らかに革新の機運が漲つて居りましたが、それは一面においては日本内部の社會革新機運となりまして、今迄すべて支那の文化を墨守して居つた日本の文化が、そこに一つの獨立の機運を持ち上げて來たやうに考へられます。さうしてそれは單に自然に社會状態からしてさういふ風になつて來たといふばかりでなく、やはり其時代の有力なる君主、有力なる公家達が居られたために、其機運を促進したのであらうと思ひます。そのことが私に最も興味を惹くことであつて、これが日本全體の文化、思想の獨立に取つて、よほど重大なことであると考へます、そのことを大體お話して見たいのであります。
先程、粟野君が後宇多天皇の御事蹟を委しくお話せられたやうですが、私はそれを承らぬで殘念に思つて居ります。私は粟野君のやうな專門家でありませぬから、材料としては簡單なことで申上げるより外致方ありませぬ。どなたでも國史の研究に志ある人は北畠親房の神皇正統記を御覽になつて居ると思ひますが、正統記で後宇多天皇のことを拜見しますると大變ほめ奉つて居ります。昔から日本で名君と言はれた天皇方は延喜、天暦、寛弘、延久即ち醍醐天皇、村上天皇、一條天皇、後三條天皇といふやうなお方であつて、同時に此のお方々はいづれも宏才博覽に諸道をもしらせられたといふことを言つて居るが、後三條以後には後宇多天皇ほどの御才は聞えさせ給はずと申して居ります、そして後宇多天皇の學問並に佛教の造詣の深く入らせられた事に就て委しく述べて居ります。親房の議論によると、寛平の宇多法皇の御誡にも天皇の學問はひどく深くする必要はない、群書治要といふ本があるがそれで澤山だといふことが言はれてある。これは唐の初めに出來た本で、支那にはなくなつて日本に殘つて居り、却て支那で珍らしがられてゐる本でありますが、其内容は經史諸子等、支那の本の拔き書きで、天子に重要なと思はれる事のみが書かれてある、その群書治要で澤山である、それ程深くせぬでもいゝといふことを宇多法皇が仰せられたが、宇多法皇は勿論その後の天皇で名君と言はれた方は皆宏才博覽な方であ
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