が大覺寺の遠忌に就ていろ/\骨を折て居られるのでありますが、其張本人の黒板君が此の講演會に出席が出來ないといふので、私が名代を申付けられたといふやうなわけになつてゐるのであります。併し私は黒板君のやうに國史の專門家でありませぬから、迚も器用なお話は出來ませぬ、それでやはり私相應の話を致すより外ありませぬのです。
併し私も日本の文化といふものは、自分の專門の東洋の歴史を研究する上から常に考へて居ります。日本の文化といふものは一體最初はどういふ状態から發達して來て、さうして日本の文化が日本の文化らしいものを作り上げたのはいつ頃からかといふやうなことを考へたこともあります。さうして時々發表も致して居りますが、それに南朝、大覺寺といふものが關係を持つてゐるやうに思ひますので、私の考へてゐる方に都合のいゝ所をお話しようと思ひます。それで突飛ではありますけれども、斯ういふものを持ち出したわけであります、どうか其點をお含みおきを願ひます。
所で日本文化の由來をお話致しますると、詰らなく長くなりますから、それは凡て省きまして、ともかく日本の文化の形づくられるのに取つて一つの大きな時代、特別な時代、それは丁度この後宇多天皇の頃から南北朝までの間にかけての時代でありますが、この時代はよほど大切な時代であると思ひます。勿論その前からして日本の思想にはすでに色々内部に變化が起つて居つたのであつて、必ずしも此時に始まつたわけではありませぬが、この後宇多天皇から南北朝までの間に變化を起して來た日本の文化といふものは、言はゞ王朝文化の最後の保持者である所の皇室とか公家とかいふやうな一團に文化の變化が及んで來たといふ風に私は考へるのであります。
御承知の通り、日本ではすでに藤原時代、鎌倉時代の丁度變り目頃からして社會の状態も大變變化して參りまして、今迄勢力がなかつた武家といふものがだん/\頭をあげて來て居ります。それから思想の上にも變化を致したと見えまして、その頃は宗教の方に變化が出來て新しい宗教が日本に出來た。それは全部日本人の考へによつて生じたといふわけではなく、幾らか支那で出來る新らしい宗教を輸入したといふこともありませうけれども、兎に角それが日本の思想の上に著しい關係を持つて來て居るといふ事は間違ないことであります。さういふ思想、それから社會状態がだん/\下の方から上の方へ/\と及ん
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