ます。あれを見ると單に昔からの記録をもとにしてあり來りの歴史を書かうとしたものでないことが分ります。勿論皇室の正統が南朝にあることを表明するつもりもあつたに相違ありませんが、單にそれのみでなく、非常な經綸を以て書いた堂々たる當時の日本の政治に對する革新の意見書と言つていゝのです。其根本は勿論親房が司馬温公の資治通鑑即ち君主の政治の參考になるやうに書いた所の資治通鑑を讀んだ所にあるでありませうが、この正統記は單に昔からの歴史を天子にお教へ申上るといふだけでなしに、昔の變化を述べて新しい時代の天子は如何なる覺悟でゐられ、如何なる方法でなさるがいゝかといふことに對する自分の意見を悉く現はした處の著述であります。だから日本第一の歴史家と言つたら此北畠親房をあげていゝと思ひます。日本の歴史の内で自分で立派な經綸的の意見を以てそれを根本として書いたものは少い、其内で親房の神皇正統記は實に見上げた堂々たる歴史であり、同時に當時の革新意見書であります。殊にその正統論を擔ぎ出すところを見ると、これは單に司馬温公の資治通鑑のみならず、宋元時代支那に行はれた正統論を承知して居つただらうと思ひます。たとへば朱子學派の本である通鑑綱目といふやうなものは、當時支那でどれ程流行したか分りませんから、それが日本に來て親房が見られたかどうかといふことは疑問ですが、兎に角宋の時代に朱子學が發達すると同時に正統論といふものが歴史の上においてよほど大事な事になつたのは確かであります。それを承知して居つたので本の名前も神皇正統記といふ風にしたのであらうと思ひます。是は決して想像ばかりではなく、兩方の時代を比較し、内容を較べて見ると、さうあるべき筈だと思ひます。
さういふ次第でありまして、凡ての事が革新の機運を持つて居つたのでありますが、天子としてはすでに大覺寺統の後醍醐天皇のみならず、持明院統の花園天皇なども入らせられ、それに仕へた所の有力なる公家達にも亦さういふ風な氣分を持つた人が相當あつたやうであります。私はあの時分の人物としては日野資朝といふ人が大變好きです、尤もこれは若い時分好きだつたのですから、老人の今となつて若手の偉い人が好きだと言つても少し年寄の冷水のやうな嫌がありますが、とにかく日本であれ位痛快な人物はないと思ふ位であります。是が其の當時玄惠法印に新しい學問を受け、又禪學をもした人で、のみ
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