ならず革新の氣分に於て非常に著しかつた點があります。資朝の痛快な事は、徒然草に爲兼大納言入道が北條方からめしとられて、六波羅へつれ行かれるのを一條邊で見て、資朝は「あな羨し、世にあらんおもひ出、かくこそあらまほしけれ」と言つたといふことが載せてあります、却々面白い。それから西園寺内大臣實衡といふ人と禁中に宿直した時に、西大寺靜然上人が腰かゞまり、眉白く、まことに徳たけたるありさまにて、内裏へ參られたりけるを、實衡「あなたふとのけしきや」とて、信仰の氣色であつたので、それを見た資朝は「年のよりたるにて候」と言つた、其後年老つて毛のはげたむく犬を實衡に送つて、「この氣色たふとく見えて候」と言つてやつたといふことですが、さういふ風な痛快な人です。それで後醍醐天皇は言はゞさういふ謀反氣の滿ち/\た人物で取り圍まれてゐたわけであつて、是が後醍醐天皇をしてあの北條氏を亡ぼさしめ、さうしてたとへ一時なりとも建武中興といふやうな大改革をなさしめた所以であります。
 勿論さういふのが當時の一般氣風であつたでありませうが、それは單に公家の人物のみならず、其外の學説思想などにおいても、同樣に其氣分が現はれて居るのであります。こゝに一つ其例を擧げて見ますと、昔から日本には相傳の學説ともなり、一種の信仰ともなつた事に妙なことがあります。それは改元する――年號を改めるに就て、一つの重大なる事柄としてある革命といふことであります。字は今日の革命思想などいふ革命でありますが、意味は一寸違つて居ります。天地間の運數を考へてどういふ時には革命の氣運が來るといふ學説で、これは漢以來行はれてゐる緯書の説から出たものであります、殊に易緯といふものから出たので、すべて天地間のことを周易の革卦から割り出し、五行の運數、干支などで判斷した考であります。それを日本で應用し始めたのは菅公時代の三善清行といふ人で辛酉革命、甲子革令といふことを申したのであります。その辛酉の年といふのは六十年目毎に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてくるわけですが、その時は天地革命の運數に當つてゐるのであるから、年號を改めて、天子とか大臣とか言ふ者は非常に注意しなければならぬといふので、此の六十年の二十二倍の年數を一蔀といふのである、それで神武天皇即位紀元の辛酉から齊明天皇の六年庚申までを一蔀完終として居る。辛酉から三年經つと甲
前へ 次へ
全19ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング