いふ風な順序を經て日本文化といふものまで到達して來たかといふことを考へると分ると思ふのであります。
私は東洋の文化は古來支那中心であつたと思ひます。勿論印度もありますが、日本に關係して居る點では、印度文化も直ちに印度から日本へ來たのではなくして、大部分は一度支那を潛つて來て居ります、例へば佛教のやうなものは、元は印度から起つたのでありますが、今日の日本の佛教は、印度其儘の佛教ではなくして、支那を通つて來た佛教、それも單に支那の土地を通つて來たばかりでなくして、支那の文化を通過して來たところの佛教であります、支那文化に洗練されて來た佛教であります。
印度の方はそれだけに致しまして、それでは支那の方はどういふ風に文化が發達したかといふと、支那でも無論、殊にあゝいふ大きな國でありますから、全地方一遍に文化が出來上つた譯でない。私の考では、例へば、黄河の沿岸から文化が發芽して、それが初め西或は南の方に開けて、それから段々東北に向つて開けて行つたのが、最後に日本まで到達して來たのであります。さういふものが段々方々へ擴つて、その方々の民族を刺激して、その刺激した度毎に、其地方に多少新らしい文化
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