に大なる變化を遂げたと云ふことも漸次明瞭になつて來た。前漢時代に於て既に變形された銅鐸を日本民族が製作した證跡を見るときは、其等のものが變形されずに、支那製作品を其まゝ受取つた時代は、必ず其れ以前でなければならぬのである。然る時は、少なくとも戰國の末年には既に支那文化は日本民族に播及してゐたと見なければならぬ。日本の歴史なり傳説なりに於ては殆ど其の時代に相當した事實を全く有たず、支那文化が最初に日本民族に及んだ時代は、未だ日本民族は國家らしき團體を形成して居なかつたと斷言するを得る。是れは單に日本民族に依つて其の事を知り得るのみならずして、支那文化を受けた支那の周圍にある各種族は、殆んど皆是と同一の徑路を採つて居ることが餘程有力なる傍證になるのである。例へば、高句麗、三韓の如きそれであつて、高句麗國は、其の形づくられる前に、先づ其の地方が支那の行政的支配を受けてゐた。即ち高句麗國は遼東の一部分、今日の滿洲の興京地方で初めて國を成したのであるが、其の國を成さない時分、既に漢では其地方に玄菟郡の高句麗縣を置いてゐたので、前漢の末期、支那の統治力が一時弛んだ時に、初めて支那の行政區域内に半ば
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