漠たる推定ではない。然るに考古學の進歩によつて漸次知られてゐる遺物は、少くとも其れ以前からのものがある。しかも、其の當時の遺物が、既に明かに支那文化遺物の變形であるといふことを認めしむるものが多い。
近頃銅鐸に關する研究、古鏡に關する研究等は急速に進歩して來たが、銅鐸と云ふものは大體に於て支那の鐘から變化して、しかも支那人の歸化人でないところの土着民族が、其の意匠を加へて造つたものであると認められる。其の銅鐸の手本となつた支那器物は、何うしても先秦時代から支那民族に用ゐられたものであつて、其の土着民族によつて變形された時代が、已に耶蘇紀元以前であるといふことは幾多の證據を擧ぐることを得る。引續き著しき遺物は古鏡であるが、古鏡の發掘せられたものは、現に前漢時代即ち耶蘇紀元以前のものと考へられるものが、九州の北部、畿内の一部に發見せられ、後漢時代には既に畿内地方に於て漢鏡を變形したところの日本民族製作のものが多數に發見せられる。其の文化の通過した地理上の徑路も漸次明瞭になつて居り、日本民族の一部が朝鮮南部に居住し、其等が既に支那民族の器物を日本化しつゝあつたので、其の後日本の内地に於て更
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