前の志賀島にて發見されたのであるが、之は尚後代に於いて足利氏が受けて居つた日本國王の印を大内氏が預つて居つて明に交通した事から思ひ併すれば不思議はないので、三國志の倭人傳にも博多の地方に倭王の宰領たるべき職務の者が控へて居つて輸出入の貿易品の審査をすることを云うてをり、此の三國志の倭人傳はたぶん魏略に依つて書かれ、魏略は後漢以來三國の前半期までの記事であるから、後漢の時に於いてやはり同樣の状態であつたと云ふことが推測され、即ち大和に統一した朝廷があつて、其の派遣官即ち後世の太宰府同樣のものが筑紫に出張して、それが海外交通の文書を司つて居たので、併せて國王の印をも預つて居つたと解釋するが至當である。兎も角此の時は既に日本の西半部を統一した國家が出來て居るので、其の國土が相當に大きくあり、文化も既に相當に進んでをつたので、漢の之に對する待遇も頗る鄭重で、其の國王印の如きも海外の大國に與へる形式のものを與へて居つたのである。たぶん後漢の初、日本の統一した國家の發端とも見るべき此の時代には、日本の西半部より朝鮮の南部までかけて領有してをり、當時に於いて已に三韓の未だ國家の形をなさゞる諸部落に對
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