しては大なる威力であつたのに相違ない。それは日本の傳説的の歴史に於いて何の時代に當るかは充分に明でないけれども、寧ろ此の頃を以て日本の開國の紀元と略ぼ定める方が正當ではないかと思ふ。
 それから後七八十年にして、日本に於いては崇神天皇の頃、即ち後漢に於いては桓帝靈帝の間に内亂があつたと云ふのが本で、所謂卑彌呼時代を來した。これは自分が嘗て考へた如く、日本に於いては倭姫が天照大神の御靈を奉じて諸國の土豪から領土人民を寄附させて統一の基礎を固めた時に當ると思ふ。兎も角後漢以後の交通は餘程頻繁なものであつて、其の時代に於ける支那の鏡鑑は至る所の古墳に發見せられ、而して支那に於いても各時期に亙る所の形式を、我が古墳出土の鏡鑑に於いて殆んど悉く具備してをると云うてよい位である。殊にその頃からして既に支那式模製の日本鏡鑑の發達を促し、銅鉾等に於いても盛に日本製のものを出す樣になり、古墳の構造は益發達して支那石造※[#「土へん+專」、第3水準1−15−59]造家屋を模した所の棺槨さへも具へる樣になつて來て、これから以後六朝にかけては、古墳から出る遺物としては、鏡鑑の如き當時の信仰に關係ありと認めらる
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