於て、即ち對岸の朝鮮滿洲等の大陸諸民族等も、漢の壓力の衰へたるを機會として、獨立の形を成せる如く、日本の島國に於いても同時に統一したる國家を形造る運命にまで進んだものではなからうかと思はれる。
そこで後漢の初めたる建武中元二年に支那に交通した統一的國家の首領は即ち委奴國王の封號を受け、漢の印綬を領するに至つたものと思はれる。此の委奴國王は從來は色々に解釋したが、やはり倭國の倭の字と同じ言葉に當てたに相違ないのであつて、昔法隆寺に藏せられ、現今にては御物となつてをる聖徳太子の法華經疏は、其の本文は六朝風の書であつて其の表題は稍時代が遲れてをるとは云ひながら、恐らく白鳳期を降るものではないが、其の表題に大委國上宮太子と書いてをる所を見ると、委と倭と同樣に用ひ、同じく大和の音に當つるものであつて、傳統的に太子時代の前後迄用ひられて居つたことが明白であるから、初めて漢に交通した委奴國なるものも、多分太子時代には大和の朝廷と解釋されてをつたに相違ない。此の最初の解釋を、本國中心主義の國史家に依つて從來故なく曲解されて來てをつたのは自分は斷然不當だと考へる。それから又此の委奴國王の印と云ふのが筑
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