九州北部から瀬戸内に入り、或は又事に依ると四國の南方の海流に依つて紀伊に達し、一方は山陰を傳つて越前地方まで達し、それが然るべき港々から段々内地に入つて來て、例へば但馬邊から中國を横斷して瀬戸内に入るもあり、越前から近江を經て畿内に入るもあり、又美濃から東海に出るもあり、至るところ支那の文化を齎らせることが分明し、殊に今日で最も歴史上の疑問とせらるゝ銅鐸はやはり支那文化の傳來と重大なる關係を有するに違ひないが(此の事に就ては別に自分の意見を發表する機會あるべし)その分布の迹は近來に至つてます/\明瞭になつて來た。恐らく戰國の末から前漢までにかけて、即ち支那に於ては周代の文化の系統を受けたる銅鐸と、漢代の文化を代表する鏡鑑とに依つて、其の長い間引續き日本に染み込んで來た支那文化が、部落的生活を營める土着民族をして、段々に統一に赴かしめる樣になつて來て、殊に銅鐸などに於ては古くから支那製のものばかりでなく、支那製に傚うて新たに日本の地方色を加へた所の遺物が多數發見さるゝところから見ると、統一したる國家を形造る前に、已に文化に於いて多少の獨立を示して居るものであつて、それが恐らく王莽時代位に
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