傳つて來た支那の植民は、日本にも絶えず入込んで來たので、茲に最初の交通が開け、而して倭人百餘國が漢に交通すると云ふことになつて來た。勿論此の前に戰國の末に既に倭國と燕との關係があつたらしいのであるけれども、其の交通の状態が明白になつて來たのは、やはり漢の武帝が朝鮮を郡縣にした以後の事であるに相違ない。支那の記録に依れば、此の時代の倭國の状態は、百餘國と云ふが如く、單に部落的の生活を營んで居つて、明白に統一された形迹が不明である。此の倭國と云ふものは少くとも日本の西半部全體を意味するものであつて、單に倭人を九州に居つた民族、或は更に限つて隼人種族と云ふが如き見解は、矢張本國中心主義の偏見として、自分の取らない所である。その當時の交通の實蹟は、近來の發掘物等に依つて益明確になりつゝあるので、現に九州の北部、大和等に於いて前漢時代の形式と認めらるゝ古鏡等を發見し、又九州北部に於て、其の形式の古鏡と共に存在した銅鉾銅劍が、中國、四國、紀州邊までに於て發見さるゝ所を見、殊に王莽鏡と云はるゝものが美濃に發見され、王莽の貨泉が丹後、筑後等に發見せらるゝ所を見ると、朝鮮の南部から一方は對馬壹岐を傳つて
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