けば印度の學問も支那の學問もやはり五つに分れて居て、分類の間には、多少食ひ違ひがありますけれども、然し内容として持つて居るものは、全般から觀れば殆ど同じものである。支那の兵書の部分は印度では古い吠陀の方にあるのであります。斯う云ふものがつまり印度の文化の要素として考へられたものと思ひます。
 西洋の事は私詳しく知りませんけれども、或る時代から希臘のアリストテレスの考へが、近代迄永く續いて、ルネサンスの時代迄此の考へで學問の組立が出來て居りました。日本でもキリシタンが初めて渡つて來ました頃、支那の明の末に利瑪竇(マテオ、リツチ)と云ふお坊さんが西洋から來て、天主教を弘めましたが、其の當時に西洋から來た艾儒略といふ宣教師が支那で、西洋の學問全體に關する西學凡と云ふ册子を書いて支那人に見せたものであります。其本は日本では徳川時代は禁書となつて居りました。當時は東洋人が西洋の學問の大體を知るには西學凡に依つて知つたのであります。之が十七世紀の初頭に支那で出來たのであります。つまり西洋の學問と云ふものは、アリストテレスの時に古代文化の總括が出來て、其の後に來たキリスト教の文明が混和して、一つの學
前へ 次へ
全27ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング