ものは、支那人が傳へて居た數術、或は印度で云へば吠陀の中にあるもので、之も同じく日本人が暗黒時代に保存して居たのであります。但し以上の如き京都の文化と云ふものは、さう云ふ樣に皇室が非常に衰微した時代に傳へられたのでありますからして、兵科に關するものはなかつたのであります。昔有名な八幡太郎義家は兵法を知らないと云ふので、大江匡房に就いて兵法を稽古したと云ふことがありますから、其の時分には兵法も公家が權威を有つてゐたのでありますが、足利の亂世には、この支那から傳來した兵法は多く失つたのですけれども、地方の武家が又學者達を聘んで、兵法の書を講じさせて聽くと云ふ所から多少は殘つた點もあります。それが後になつて日本では天文、永禄から元龜、天正の頃になりますと、武家が各々自分の兵法を發明して、武田家は武田流、北條家は北條流と云ふのが出來ましたが、之も實は武田信玄の存生中に武田流が出來、北條氏康の時に北條流があつたのではなく、多くは其の家が亡びてから何々流と云ふのが世の中に現れて、一種の兵法學者の看板で飯を食ふ人間が出來たのであります。しかし兎に角其の頃には支那傳來のものゝ上に、日本人は特別な兵法を
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