り禪宗盛んとなり、宋・元の高僧も渡來し、我國高僧も彼國に渡りて歸國するもの多く、之によつて、自然宋朝の肖像畫の風を傳へたり。支那に於て、宋朝の肖像畫は、唐の肖像畫とは、其風格に相違あることを認むべく、その證は前述せる『歴代帝后像』に現はれたる宋代の帝后像を見ても知るを得るなるが、其の畫風は唐代の畫よりも、用筆・着色共に細密を尚ぶ樣になりたれども、工匠の手法に傾きて、精采は頗る乏しく、大體に於て宋朝の肖像畫は衰退期のものなることは爭ふべからず。尤も日本に宋朝の肖像畫の入りし時は、日本に於ては日本獨得の肖像畫の隆盛期にして、隆信・信實は已に亡せしも、其の餘流の人々も、肖像畫としての精神を失はざりし時代なりしかば、南北朝頃までの我高僧の肖像畫の中には、我國に傳來せる精神によりて宋風の形式に畫き、頗る觀るに足るものありき。此種の肖像畫は、其の形式は宋風を襲へるも、其の傳神の妙處は寧ろ大和畫より得來れる者なるを以て、之を全然宋式肖像畫といふことを得ず。この事實は、我國肖像畫の全盛期が何時頃までにして、其の風格は如何なる者なるやを斷定するに就て、頗る其結果を誤謬に導き易き原因なりとす。
 宋以後の
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