親鸞聖人も、其の當時の乞食坊主の如き生活は、必ずしも之を畫きて傳へざるべからざる程の服裝を有せざりしやも知れず、この信實より六代目に豪信法印と言ふ肖像畫家あり。豪信法印の筆跡としては花園天皇の宸影殘れり、それに天皇の宸筆にて奧書せられし所と、豪信の系圖として傳はる所との間には、信實の子孫としての代數の相違を見出すも、尊卑分脈によりて其疑問は決せられ得べし。
 豪信につきて彼の最も著しき仕事は、彼の祖先以來畫きし所の肖像畫の編纂をせしものと思はるゝ三種の肖像畫集を殘せし事なり。即ち『歴代帝王宸影』、『攝關影』、『大臣影』是なり。此の三種の肖像畫卷は傳寫本にて流布し居り、歴代帝王宸影は鳥羽院より後醍醐院までありて、其奧書によれば、其内鳥羽院より伏見院までは信實の曾孫なる爲信卿の筆と傳へられ、後伏見院後醍醐院の二代は豪信法印の畫きしものと言はるゝが、勿論爲信卿の筆と言はるゝ十數代の宸影中には、祖先代々の人の畫きしものゝ傳寫を含むものなるべし。此宸影の自分が見たるものは富岡鐵齋翁の所藏さるゝものにして、冷泉爲恭の寫し傳へたるものなり。攝關影は今手許に證據になるものなきが、大臣影は自分もその傳寫本を所藏す、花山院家忠以後八十人の大臣の肖像を集む。この傳寫本の原本は近衞家にありし由、奧書に見えたるを以て、嘗て同家の藏品搜索を乞ひしも、未だ發見せられずして、發見せられしは、傳寫本中の別本なりき。それによりて八十大臣の外に、其後の分を補寫せし本のある事も明かとなれり。勿論、これも隆信以來の描きし肖像を編纂されしならんが、これについて不審なるは、其中にある所の重盛の肖像が、現に神護寺に存在せるものと少しも似ざる事なり。されば神護寺現存の重盛・頼朝の肖像は、當時の何人かの肖像なるには相違なからんも、果して重盛・頼朝なるかは疑問なるべし。但し、それはまた當時新に起りし日本風の肖像畫の代表的のものにはならぬといふ意味には非ず。多分その筆が隆信の畫と言ふ傳來は正しからんも、神護寺の所傳の如く、重盛・頼朝なるかは疑問なるべし。自分はこの三通の肖像集の存在する時代、即ち藤原末期より南北朝初期までの時代を以て、日本肖像畫の高潮期と考ふ。その中にも、隆信、信實は勿論、豪信にしても、其技倆の優れることは、簡單なる用筆の間に精采ありて、その面相なり、風采なりを現はせる所を其特色とすべし。
 鎌倉の中頃よ
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