那の文化が日本に輸入さるゝ時に特殊の事情を生じて、原因結果に關する歴史的判斷に錯覺を惹起さしむることあり。卑近なる例を擧ぐれば、日本の藥種屋が金看板を好みて吊れる所より、金看板は藥種屋特有のものゝ如く考へらるゝも、支那に於ては金看板は如何なる店舖にも之を吊るものにして、藥種屋に限れる譯にあらず。足利時代に於て、日本の對支貿易の最も重要なるものが藥種なりしより、藥種屋が直接に支那に渡り支那風の金看板を用ゐしを以て、金看板が藥種屋の特有なるかの如く見ゆるに至れり。建築に於ても亦、佛殿法堂式の建築は、日本に於ては寺院のみに限れるも、支那にては宋代以後の大建築は大體みな法堂の如きものなり。日本にては單に禪宗の寺院を中心としたるものに此式の建築廣まりしを以て、此式の建築は禪宗特有のものゝ如くに考へらるゝが、これは支那文化の日本に輸入さるゝ際に發生する特殊の事情に基くものにして、禪宗と肖像畫との關係の如きもまた此の同一事情に外ならず、根本に於て、禪宗と肖像畫との間に特殊の關係あるにあらざるなり。要するに是れ宋代肖像畫の傳來に關する事情の誤解にして、我が肖像畫の歴史を知らんと欲せば、先づ禪宗傳來以前、日本肖像畫の全盛期あることにも充分に注意する必要あり。
 今一つの意見は、同じく肖像畫の全盛期を足利時代とするものなるが、それにつきて特別の理由を求めんとするものにして、足利時代は低き階級が活動し始めしを以て、社會は個性の發達を促せり、これ肖像畫の如き個性の發現を尚ぶものが、足利時代に盛んとなりし所以なりと考ふるものなり。これは足利時代の肖像畫の實物と、隆信・信實の肖像畫の如き優秀なるものとを比較せずして、即ち實物を無視して説をなしたるものなるが、一方に於てまた時代の眞相の觀察を誤れるにあらざるやを思はしむ。前者に就ては肖像畫の現存せるものを實見すれば、何人も隆信一家のものと、足利時代の多數の肖像畫との優劣を判斷するに苦しむものあらざるべく、禪宗渡來以後の肖像畫に於ても、寧ろ鎌倉時代以後南北朝のもの優れ、其以後のものは衰退せる事を發見するに難からざるべし。後者即ち日本歴史上の時代觀に於ては、余は日本に人心の動搖と共に個性活動し始めて多くの天才を現はせるは、やはり藤原末期より鎌倉初中期間なりと考ふ。即ち宗教上の信仰の動搖より叡山の片隅横河の山中にて既に淨土教の信仰萌し、眞言宗にも新義派
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