以上は日本肖像畫の全盛期に就て有する余一己の私見なるが、これと異なる意見を有する論者も頗る之あるが如し。其の意見の多くは、現存する肖像畫の最も多數なる足利時代を以て肖像畫の全盛期とせんとする傾向あるが如し。其の據る所は、肖像畫の日本にて盛となりしは、禪宗の傳來に負ふ所多く、禪宗には宗旨の本義として、其師の頂相即ち肖像を傳ふる事とし、これを祭るにも掛眞即ち肖像畫を掛くる風ありしより、肖像畫の用は禪家によりて發達し、隨て日本肖像畫と禪宗とは離るべからざる關係あり、此宗派の盛んなると共に日本の肖像畫の進歩を促せりとするが、一つの見解なり。
 しかし、此議論には著しき缺點あり。禪宗が日本に高僧の肖像を持ち來りしは事實なれども、その本國たる支那に於て、肖像畫の發達は特別に禪宗によりて起りし證據なし。支那肖像畫の流行は、唐以來滋※[#二の字点、1−2−22]盛んにして、士大夫の間まで擴がり、以て宋代に及びしことは事實なれども、肖像畫の優れたるものは寧ろ唐代にありし事は、眞言五祖像によりても想像され、已に其時代の詩集等に肖像に關係せる詩文等多く現はる。宋代となりてより此風は一般に擴がり、殊に肖像畫について多く用ゐたる、自分の肖像と言ふ意味の「陋容」「陋質」と言ふ語の如き、禪家以外の宋代の士大夫も之を用ゐたり。士大夫の家には又影堂といふものありて、そこに於て祖先を禮拜せしことなるが、これに祠る所の影は即ち肖像にして、之を作るについて、男子は生前に既に之を畫くを得れども、婦人は生きて居る時にてさへ他人に面を見せざる風俗なるを以て、死後其顏に當て居る帛を取りて、寫生の料とすることは禮に適はずとせる程の議論ありし事は、司馬温公の『書儀』にも見え、士大夫みな影堂及影像を有することが當代の習慣にて、それが禪宗にも及びしに過ぎず。禪家に特別に肖像畫が盛なりしといふ事實は少しも無し。大體、宋代の繪畫は、これを全體より通論するも、人物畫の盛なりし時には非ず、人物畫の盛期は既に唐代に於て通過したり。是れ支那藝術一般の傾向より考ふるも明かにして、唐代までは彫刻大いに行はれしも、宋代以後には頗る衰へたり。彫刻の衰ふることは人物畫の衰ふることゝ密接の關係を有し、人物畫の衰ふることは又肖像畫の衰ふることゝ大關係あり。宋代の如く山水畫の發達せし時代に、肖像畫が衰へて類型的となりしことは、又自然の數なり。ただ支
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