が幾分か分つて參りました。
 この「翁の文」といふのは、どういふ本で、どういふ事を書いてあるかと申しますると、これは「出定後語」より四五年前に書いたものでありますから、恐らく富永の二十代の著述かと思ひます。二十代で非常な頭をもつてゐたものと思はれます。この中に書いてあることは「説蔽」に書いてあると同じで、支那の學問研究の原則を與へたものであります。それは大體斯ういふ風に考へました。孔子の生れた當時、その當時は五覇の盛んな時である。齊の桓公、晉の文公といふのは當時の覇者であります。その覇者の盛んな時であつて、孔子はその時一般の人々が覇を尊んで居つたので、その上に加上して、文武といふことを言つて居ります、周の文王・武王といふことを言ひ出した。孔子の後に墨子が起つて、墨子は文武の上に更に堯舜のことを言ひ出した。その上に今度は楊朱が黄帝を言ひ出した。それから孟子に書いてある許行がその上に神農のことを言ひ出した。これが支那に於ける加上説である。思想の上からすれば、孟子に書いてある告子が、性には善惡なしといふ説を唱へたのである。孟子は性善説を唱へた、荀子は性惡説を唱へた、斯ういふ風なのは加上説であるといふ。然るにこれは加上によつて出來たといふことを知らずに、日本の伊藤仁齋は孟子の説が正しいとし、徂徠などは孔子の道はすぐに先王の道にて、子思・孟子などは之に戻れりといふが、その説の起る由來を辨ぜずして末節に拘泥し是非の論をなすもので、説の起る由來を考へると、段々思想上の加上から來るのであつて、目的は皆同じである。皆新しい説新しい説を言ひ出すから、さういふことに拘つて來るのであると、斯ういふ風に考へました。今日「説蔽」といふ本はありませぬが、之によつて「説蔽」の大體は分るのであります。
「翁の文」には又日本の神道のことを批判してあります。日本の神道は、勿論富永の時代は本居・平田のまだ起らない前でありますから、近代の國學者の神道は未だない時で、その當時行はれて居つた神道によつて判斷したのであります。大體神道といふものは昔からあつたのではございませぬ。これは皆中古から起つたものである。先づ起つたのは兩部習合――佛教と神道とを一つにしたものである。兩部習合説が先づ起つて、それから後に本迹縁起――本迹縁起と申しますのは、何の神の本地は何佛で、何々神といふのは垂迹である、佛が本體で、神がそれから實際世に現はれて居る者と考へたのであります。それで兩部習合説の次に本地垂迹説が起り、その後になつてアベコベに、神を本地として佛を垂迹とした説も起つて來たのであります。それから今度は佛教・神道兩方を一緒にする説が行はれ、更に唯一宗源といふ、これは神道だけで解釋して行かうといふ風に加上したのであります。これらは中古の神道で、平安朝から鎌倉・足利時代までの間に出來た神道であります。その後、徳川時代に王道神道といふものが起つた。これは神道を儒教で解釋したといつてある。これは富永は明白に申しては居りませぬが、易で神道を解釋した伊勢の神主等、又はその後に起つた山崎闇齋が儒教で神道を解釋したことを指すのでありませうと思ひます。これは表に神道を説いたけれども、内面は儒教である。斯ういふ風に段々加上によつて神道も發達して來たのであつて、神道が古い時から傳へられたと云ひますけれども、實は古い事をその儘傳へて居るものでもなく、又古い事が良いからと云つて、今日の生活を昔の質樸な生活、原始的生活に返して、今日の我々の生活に入れられるものでないと云つて居ります。

       「翁の文」の新學説

 この「翁の文」に特別なこの人の意見が現はれて居る所は、學説に時代があるといふことを説いて居る點であります。昔大變效能のあつた宗教なり禮儀なりも、今日では役に立たないものであるといふ、中々新しい考へであります。これは單に宗教・道徳に國民性が在るばかりでなしに、國民性の外に時代相があるといふことです。近頃時代錯誤といふことを申しますが、そんなことは富永が今から百八十年程前に考へて居りました。それで今日の我々には今日に相當した「誠の道」といふものがあるべき筈であると、斯ういふ事を考へましたので、それで神道・佛教・儒教この三つの外に誠の道といふものがなければならぬ、それが即ち今日實際に役に立つべき所の道徳であるべきであると、斯ういふことを言ひました。これが「翁の文」の大意であります。つまり國民性は時代によつて地方によつて變る、時代によつて學説が變つて來るから、時代によつて相當の學説があるといふことを考へて居ります。今まで富永の議論で知られて居ることは、先づそれだけと言つて宜しいのであります。極く簡單でありますけれども、それだけで隨分この人の卓見といふものが出て居ります。
 學問上の研究方法に論理的基礎を置いたといふことが既に日本人の頭としては非常にえらいことであります。その外に宗教・道徳に國民性の區別があり、時代相の區別があると、あらゆる點に注意して居ります。これが我々の非常に尊敬する所以であつて、恐らく日本が生み出した第一流の天才の一人であると言つても差支ないと思ふのであります。

       家系と其の攷學

 私はこの天才は大阪が生んだ人だといふことを簡單に附け加へたいと思ひます。其處に出してございます拓本の中、一番最初が富永のお祖父さんお祖母さんの碑であつて、徳通といふのが仲基の親であります。この「翁の文」の序文などから考へますると、ヒヨツとするとこの人の先祖は播州から出たのではないかと考へられます。播州といふ處は妙に大阪に於ける町人學者を多數出しまして、私がやはり嘗て懷徳堂で講演しました山片蟠桃といふ人も播州の出身であります。富永の先祖も播州から出たのではなからうかと思ふのであります。父からは既に大阪に住まつて、仲基は大阪に生れた生粹の大阪つ子に相違ないのであります。この人には兄弟がありまして、其處にある毅齋居士といふのがその兄であります。それは腹違ひの兄弟で、母の碑文が其處にあります(陳列の拓本を指す)、それが仲基の生みの母でありまして、その仲基と兄毅齋との間にもう一人あつたが、その人の名前も分らず、はつきりしたことは分りませぬ。富永の生みの母は三人の男の子を生んで居りまして、皆學問が出來たやうです。二番目が池田に養子に行つた荒木蘭皐、三番目が眞重、通稱は何と云つたか分りませぬ。これも學問が出來て、此人の書いた漢文に荒木蘭皐の集の序文があります。仲基の親は實名は徳通、號は芳春といふ人で、相當の學者でありまして、即ち懷徳堂を起しました五同志の一人で、淀屋橋尼ヶ崎町と申しました今の北濱邊でありませう、其處で道明寺屋吉左衞門といふ醤油屋であつた。その家を繼いだのは仲基の兄毅齋であります。仲基は通稱を何んと云つたかはつきり分りませぬが、近頃淡路の國から仲基の「翁の文」の寫本が出て參りました、それは富永と同時代の學者で仲野安雄といふ人が寫して居つたもので、それに翁の文の著者は「道明寺屋三郎兵衞」と書いてありますから、それが通稱であらうと思ひます。
 それで若い時から聰明であつたに違ひなく、懷徳堂主の三宅石庵に就て學問を稽古した。その内、「説蔽」といふ儒教を攻撃した本を書いて、石庵から破門されたと言ひ傳へてありますが、「池田人物誌」に西村天囚君の説を引いて、石庵の死んだ時富永は十五六であらうから、著述したにしても破門されるといふことはあるまいと書いてありますが、成程それが尤もであらうと思ひます。この三宅石庵から破門されたと言ひ出したのは佛教者の言ひ傳へであつて、佛教者が富永の惡口を言ふために、いろ/\の事實を捏造して居ることがあるやうです。富永が佛典を讀んだのは、黄檗板の藏經――今でも一切經の版木がありますが、それは富永より六七十年前に鐵眼の作つた版木であります、その版木を校合するため富永が傭はれて居つて、それがために佛教を學んだのであらう、それから佛教の惡口の本を書いたから、大變佛教の恩に背いて居ると、慧海潮音といふ眞宗の坊さんが書いてゐます。之と同じ話で段々異部名字式に變つて來た話でございますが、矢張り淨土宗の坊さんが書いた「大日比三師講説集」といふ本がありまして、富永は佛教の惡口を言うたので到頭癩病になつた。それから大變後悔して、坊さんを頼んで「出定後語」の版木を燒棄て、阿彌陀經千卷を書いて懺悔したけれども何等の驗しがなく、到頭癩病で死んだといふことが書いてあるのです。これは文化文政頃富永の惡口が盛んに行はれて、坊さんが富永に對し酷く反感を持つた時分の言ひ傳へであります。石庵に破門されたといふのも、其時の言ひ傳へでありますから、どれだけ之に信用を置いてよいか餘程疑問であります。但し黄檗山で藏經を見たといふ、これは事實だらうと思ひます。富永の作つた詩の中に、自分の家庭の面白くないことが書いてある。これは恐らく自分の母が兄に對して繼母である關係ではないかと想像されるのでありますが、しかしお母さんといふ人が非常な賢婦人であつたらしいのであります。お母さんの碑文といふものは、多分仲基の弟荒木蘭皐が書いたのでありませう。兎も角何か家庭に面白くない事情があつて、富永が一時自分から家を出て居つた、その間に黄檗に行つて居つたのかも知れませぬ。その時藏經を讀んだのだらうといふことは想像されるのであります。その外に多く佛教者から出た惡口は信用出來ませぬ。それから「出定後語」の版木を燒棄てたといふのは全く嘘でありまして、その後になつて平田篤胤がこの本を搜した時に、大阪の何處かの本屋の藏の隅から版木を漸く見付けて刷り出したといふことを書いてありますから、版木を燒棄てたといふのは全く嘘であります。佛教者は妙に人の惡口を言ふ時には、口ぎたない言辭を用ふるものでありまして、たゞ無闇に聲を大きくして人を罵るやうなことをする。これは甚だ感服仕らぬのであります。

       獨創的識見

 この「出定後語」、「翁の文」のえらいことについて、私は色々の處で講演いたしたのでありますが、富永の書のえらいことは、最初は國學者の本居宣長によつて發見されて、「玉勝間」に書かれたのであります。それを見た平田篤胤が、それから本を搜し出して、「出定笑語」といふ本を書きました。我々はそれを讀んでからこの本を知り、更に「出定後語」を讀んだ譯でありますが、その當時から富永が幾らか人々に注意されたものと見えまして、殆ど富永と同時代でありました湯淺常山が「文會雜記」といふ本に富永の本を批評しまして、佛教の事を一通り知るのには「四教儀集解標旨鈔」といふ本があつて、それを讀むと大體佛教の大意は知られるといふ、それで「出定後語」はこれから見出したといふやうなことを或人が言つたといふことを書いて居ります。私もこのことを若い時に見まして、「四教儀集解標旨鈔」を搜して見ましたところが、この「四教儀集解標旨鈔」といふ本の著者は仙臺に居つた梅國といふ坊さんであつて、大變博學な佛教學者でありますけれども、富永が之によつて佛教の事を見出したといふことは全く嘘であります。それは「四教儀集解標旨鈔」を碌に讀まず、「出定後語」も碌に讀まない人の批評であります。存外昔の人の批評といふものも注意しなければならぬものだと、三十年も前のことでありましたが考へたことがあります。
 つまり富永の佛教批評といふものは、全く自分の獨創的な見識、獨創的の天才から出たのであります。何か人に教へられた、人の著述によつて思ひ付いたといふやうな、そんな詰らないものではないのであります。「翁の文」なんぞも、猪飼敬所程の學者も感服したと見えまして、之を讀んで大變えらいといふことを書いて居ります。それで私共長い間この本を搜して居つたところ、偶然昨年の春まで大阪外國語學校の教授をして居つた龜田次郎といふ文學士が發見しました。それを私が到頭版にするやうになつたのであります。この人の學説なり、その傳記なり、又私がそれに關係した由來をお話すると大體こんなことであります。長くばかりなりましたが、どうぞ
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