大阪の町人學者富永仲基
内藤湖南

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)出定後語《しゆつぢやうごご》

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(例)各※[#二の字点、1−2−22]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\な天才
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 大阪毎日新聞が、一萬五千號のお祝で講演會を催されるといふことで、私にも出るやうにとのお話で出て參りました。但しこの講演會は、時に毎日新聞の一萬五千號のお祝のやうにも聞え、大大阪のお祝のやうにも聞え、時としては大大阪文化史の講演といふ風に見えたこともあります。それについて一寸お斷りして置きますが、私は大都市主義に反對です。それで一萬五千號のお祝に出て參りましたので、大大阪讚美のために出て參つたのではありませぬ。これだけはお斷りして置きます。(拍手)今日は殊に大大阪について十分に讚美のお話がありませうから、一寸それだけ申上げて置きます。

       大天才富永仲基

 私のお話申上げますのは、「大阪の町人學者富永仲基」についてゞ、この長々しい題號は、毎日新聞の岩井君が選定して呉れたので、私は何も知りませぬ。併しこの事をお話したいといふことは私の注文です。
 これについては私が前にも或時に講演したことがあります。大阪に懷徳堂といふものがありまして、其處で大正十年に一度講演をしました。その時はまだ富永の著書について、私共見たいと思うて見付からぬものがありまして、殘念のことに思つたのでありますが、それが幸ひに昨年の春見付かりまして、私は非常に嬉しかつたので、早速これを貧乏の中から大奮發で出版しました。それは「翁の文」といふ本であります。此處に持つて參つて居りますから後で御覽を願ひます。但し澤山お買ひ下さると云つても、もう本は澤山ありませぬ。それもお斷り申して置きます。私が出版した本はこれで、これは(原本を示す)昨年見付かつた本でございます。
 この富永仲基といふ人は、私のひどく崇拜して居る一人です。大阪に關係のある人では、いろ/\な天才、えらい人がありませう。昨日お話のあつた筈の豐太閤、これも非常な天才、日本の天才でございました。それから文學者として近松門左衞門といふ人もありませう。併し眞に大阪で生れて、而も大阪の町人の家に生れて、さうして日本で第一流の天才と云つてよい人は富永仲基であると思ひます。
 此人を隨分若い時から私は崇拜して居りまして、初めて此人の事について何かつまらないことを書きましたのが明治二十六年であります。今此處にお出になつて私の話をお聽き下さる方で、明治二十六年にはまだ生れない方もあるかも知れませぬ、隨分古いことであります。その時分から敬服して居つた。それは彼の有名な「出定後語《しゆつぢやうごご》」といふ本を讀んで敬服したのであります。それはこの本でございます。(書物を示す)これもどうぞ後で御覽下さい。
 それから段々いろ/\の人がこの事について書いたものも見ました。又それに就ていろ/\の事を調べまして、今日では此人の歿年は分りませぬけれども、大體何時頃に生存して居つたといふことは分ります。さうして此人の出所も大分はつきり分るやうになりました。其處に列べてあるのが富永家の墓の拓本であります。これは岩井君にお願ひして作つて戴きましたが、このいろ/\の墓は今日でも下寺町の西照寺にあります。その墓は私共が初めて見付けた譯ではありませぬ、前から知つてゐる人がありまして、私が初めて見ましたのが、隨分これも古い、明治三十七年であります。その年が丁度甲辰の年――日露戰爭の起つた年でありますから甲辰の年であります。この「出定後語」が出來ましたのが延享元年甲子の年で、丁度百六十年に當ります。それに大阪生れで有名な慈雲尊者がなくなつてから百年に當つて居るので、私共二三の同志の者が、一つ富永の墓を弔つてやらうぢやないかといふことで、その西照寺で小さい會を致しまして、富永仲基と葛城慈雲、この二人を偲ぶために、その著書などを列べたことがあります。慈雲尊者は日本の梵學研究に大なる功績を遺し、又佛教にも一種の創見を有して居り、富永と行方は違ふが天才と云ふべき人で、私が聊かでも佛教に關する正しい知見をもつて居るのは此人の御蔭です。此時に初めて富永一家の墓を見ましたが、惜しいことには富永仲基本人の墓は已にありませぬ。祖父祖母の墓、兩親の墓はあります、兄の墓もあります、其外一族の墓もありますが、私共の見ました時はまだ元の墓地その儘の處にあつたのであります。近頃はどうやら少し横の方に片付けてしまつてあると聞いて居ります。片付けられてから後私は行つて見ませぬ。兎も角その本人の墓はありませぬけれども、一族の墓石はありまして、而もその母の墓の中に富永仲基のことがはつきり出て居りますので、それで確かなことが分るやうになりました。仲基の亡くなつた年ははつきり分りませぬが、何年頃から何年頃までの間といふこと位は、この母の墓碑によつて分るやうになつたのであります。
 さういふ風に幾らか此人の事について前から注意をして居りましたので、大正十年に懷徳堂で、その時丁度大阪の町人學者に關する講演をいろ/\の人が引續きやつたことがありまして、私もその一人として富永のことを引受けて話をしたことがあります。それからこの「翁の文」が昨年見付かりまして、丁度その頃京都の龍谷大學の教員生徒達の間に史學會といふものが出來まして、そこで何か話をして呉れと頼まれて、その時少しばかりお話したのでありますが、斯ういふ一般の有識者のお集りの晴れの席でお話するのは今日が初めであります。それで此人は、大大阪ではありませぬ、昔からの大阪、その大阪が生んだ所の第一番の天才、學者もいろ/\大阪にありませうけれども、兎も角第一流の天才として數へることが出來る人だと思ひますので、この講演會で是非お話をして見たいと思つたのであります。
 懷徳堂の大阪町人學者に關する多數の講演の筆記は、實は今頃既に出版に相成る筈でありましたが、その筆記の原稿が東京の本屋で震災の折に燒けてしまつたといふことで、その本が出來ませぬ。併し私のは實は燒けたのではありませぬ。私は懶惰者でその原稿を預かつて置いて訂正しなかつたため、私のは燒けなかつた。其後に私の話が土臺になつて富永仲基の傳が出來て居ります。それは仲基の傳だけ一册に出來て居る譯ではありませぬ。この大阪の北の方に池田町といふ處があります。その池田町の篤志な人々の仕事で、いろ/\の池田町から出た人々の著述等を出版して居ります。さうして「池田人物誌」といふものを出した、その中に富永仲基の傳記があります。實はか程の人を大阪市が横取りされるといふことは勿論心外なことであるべき筈でありますが、横取りする十分な理由……裁判所に出たら負け公事になるかどうかは知りませぬが、相應な縁故があるので、池田町の人が「池田人物誌」の中に富永の事を書きました。富永の弟に荒木蘭皐といふ人がありまして、その人が池田の荒木といふ家に養子に行つたのであります。それで兄弟共に、池田に居りました田中桐江といふ學者に從つて稽古をしたので、池田には隨分縁故があるのです。池田には又富永の作つた詩などが遺つて居ります。それから書も遺つて居ります。いろ/\大阪に遺つて居らぬものが池田に遺つて居る所からして、池田の人がひどくその荒木蘭皐の關係と共に富永贔負でありまして、それで「池田人物誌」の中に富永の事を併せて載せたのです。どちらかと申しますると、この將に大大阪にならんとして居る……現になつて居るか知れませぬが、それ程の大阪が、池田町にこの第一流の天才、大阪自身が造り上げた天才を横取りされる程不明であつたといふことは、或は良いみせしめになるかも知れませぬ。横取りされてもこれは餘り苦情が云へないかも知れませぬ。それは餘計な話でありますが、先づ此人をどういふ譯で私共が感心するかといふことから、單刀直入に申しませう。

       佛教の研究と其の學説――「出定後語」

 この富永仲基のどういふ點が偉いかといふと、今まで世間の人に知られてゐたのは即ち「出定後語」といふこの二卷の書の爲であります。これは何處か大阪の本屋に板木が今でもあるだらうと思ひますが、この本にどういふことが書いてあるかと申しますと、佛教の研究です。佛教の研究といふのは、佛教を有難いものとして、近頃の人が禪學をやつて膽力を練つたりするやうな研究ではありませぬ。佛教を批評的に研究した日本で最初の著述であります。而もそれ以上の著述が曾て出來なかつた所の著述であります。その佛教の研究法といふものが非常にえらいものだと思ひます。この本が出來ましてから、佛教者の方でも大分騷ぎまして、隨分有名な人がそれに對抗する反駁を書いて居ります。京都のもと寺町にありました寺でありますが、了蓮寺といふ寺です、今はこの寺は引越して百萬遍の内にあります。今の住職は私共懇意でありますが、その寺の無相文雄といふ百數十年前の人は、淨土宗の非常な學者であります。淨土宗の學者といふことの外に、漢字の音韻の學については大したもので、この方では、日本で最初に學術的に研究した人と云つてよい餘程えらい人であります。この坊さんが、富永の「出定後語」を攻撃した「非出定」といふものを書いた。これは版にならず寫本で傳はつて居ります。これも前から搜して居つて、先年了蓮寺の今の住職に注意したので、今の住職の熱心で帝國圖書館で見付かりまして、今はその方の研究者には知られるやうになつて居ります。これは簡單な「出定後語」の批評であります。併し實は「出定後語」の研究に對しては餘程つまらない批評でありまして、採るに足りませぬ。
 その後に眞宗の慧海潮音といふ人がありまして、これは江戸の淺草で生れた坊さんであります。眞宗の坊さんとしては餘程不思議な人でありまして、眞宗でありながら戒律を守つて肉食妻帶もしなかつた坊さんで、有名な眞宗の學者でありますが、此人が又「出定後語」を反駁した本を作りました。中々難かしい名前の本であります、「掴裂邪網編」といふ、これも二卷ありまして、いろ/\反駁してあります。勿論多少富永の誤を訂すだけのことはありますが、併し富永の根本學説に觸れたやうなことはありませぬ。兎も角今日まで富永の著述といふものは、佛教研究の著述としては非常な立派なものです。
 これをなぜ坊さん達が攻撃したかと申しますると、此人は詰り日本で大乘非佛説――大乘が佛説でないといふ、釋迦の説いたものでないといふ説の第一の主張者であります。さういふことで坊さん達が躍起となつて此人を攻撃したのであります。併し富永の研究は、大乘が佛説でないといつた所が、それは何も佛教に對し惡口を言ふために書いたのではない。佛教者に言はせると、佛法を謗つて書いたやうに申しまして、非常に憤慨して居るのでありますが、實は何も謗法の爲に書いたのではない。唯だ佛教を歴史的に學術的に研究したいといふのであります。昔は何でも歴史的學術的に研究すると叱られた。これは日本に限りませぬ。西洋でも天文の研究で叱られた學者がある。何處でも初め學術的に研究した人は皆叱られて居ります。その研究の仕方が、どういふ點がえらいかといふと、大乘非佛説を唱へたといふことも、勿論えらくないことはありませぬが、私共はさういふ富永の研究の結果で出來た所の、その結論に感服するのではございませぬ。此人の考へた研究法に我々感服したのであります。日本人は一體論理的な研究法の組立といふことに、至つて粗雜であります。學者の中で非常な新しい思ひ付きがあつて、さうして新しいことを何か研究して産み出す人は相當にありますが、併し自分で論理的研究法の基礎を形作つて、その基礎が極めて正確であつて、それによつてその研究の方式を立てるといふことは、至つて日本人は乏しいのであります。それは仁齋でも徂徠でも皆相當えらい人でありますが
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