はお釋迦さんの説を弟子の菩薩達が之を説かれたもの、「律」といふのは、これはお釋迦さんの定められた戒律即ち「おきて」でありますから、道徳上の規定であります。その上にこの經律論を解釋する「釋」といふものがあつて、その説を傳へる人が更に解釋したのであるといふ、それでその出來た前後の關係を説明するが、富永はさうでないと申しました。お釋迦さんの當時から經も律も論もあつてちつとも差支ないのである。それは論の中にも偈頌と長行とがある。偈といふのは、意味を大變簡單に約めて、詩とか歌といふ具合で韻文にまとめて書いたもので、長行といふのは、これは韻文の意味を細かく解釋して、さうしてそれを分り易く演べて書いたものであります。この偈頌と長行とは、論部にも毎に出てゐます。先づ短い四句偈・八句偈・十句偈があつて、その次に意味を演べて書いた長行があります。それで何のために偈頌を作つたかといふことについて、佛教の方では、その由來を八つの意味に説いてありますが、その中第五と第六とが眞の意味だと富永は申してゐます。第五は、この偈を韻文にして讀み易くしたのは、それは皆んなが韻文であることを望むからと、第六は韻文だと覺え易い
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