味だけでは、大阪の言葉「たわけ」の意味を十分盡し難い。大阪で「たわけ」といふ言葉は、放蕩といふ外にもつと多くの意味を含んで居る。何處の國の言葉でも、その國の言葉には特色があつて、それは多義を含んで居る、他の國の言葉で解釋すると多義を含んで居る、何もサンスクリツトだけ有難い結構な言葉であり、多義であるといふ譯ではないと申しました。
これ等の考へ方によつていろ/\の事を推論して居ります。例へば斯ういふ風なことを考へた。佛教によく最初に「如是我聞」と書いてある。佛教の從來の話で「如是我聞」といふのは、それはお釋迦さんの言うたことを、弟子の阿難といふ大變記憶の好い人があつて、それがお釋迦さんに多年侍者として隨從して居りましたから、いろ/\の事を聞いて居つた。お釋迦さんが死んでから、始めてお釋迦さんの言うた事を編纂するといふ――勿論その時編纂すると云つても本に書くのではない、昔の編纂といふのは言葉の上の編纂でありまして、皆んな寄つて、誰もかういふ事を聞いた。某もかういふ事を聞いたと、皆んな聞いたことを話合つて見て、さうして皆んなの話を持ち寄りして、それを皆んなが確かに記憶して置く、昔の人の學問
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