非情の物までも、意識のない鑛物とか草木までも成佛といふ風に説いて行くのが、それが「張」といふことであります。「轉」といふのは、意味が轉ずる、前の「反」といふ程全く反對ではありませぬが、意味が轉化するといふことであります。富永が例を擧げて居りますが、初めは一闡提を除いて皆佛性があると説いたが、後にはその一闡提さへも佛性があるといふ風に説が轉じて行つた。斯ういふ風に、言葉の意味は段々と轉化するものである。五類の働きによつて教義の發展が出來るのでありますから、五類といふことを知らなければ佛教の研究は出來ないと、斯ういふことを言つたのであります。

          四 其の他の學説

 それから之について富永がその外の事にも渉つて論じて居りますが、よく佛教家は印度の言葉即ち梵語は多義である、意味が多い、それで印度の言葉は尊いのであると解釋するが、富永は何處の國の言葉も多義であるとして、大阪の俗語の例を擧げて例にして居ります。大阪で放蕩者のことを「たわけ」と、その頃言つたのでございます。近頃は「極道」と言うて、餘り「たわけ」と言はない。放蕩者の「たわけ」といふことを、支那の文字の放蕩といふ意
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