手に區別したので、元來はさういふものでないといふことを言つて居ります。かくの如く、佛教を研究するのに、支那のこと日本のことも實際昔の原始時代のことを考へて、比較研究をしたといふことは、餘程歴史的研究にえらい頭をもつて居つたといふことが分るのであります。
研究法と學説の價値
大體富永の研究法といふものはそれだけでありますが、これだけあれば、如何なる古い時代の、時間も空間も不分明な記録でも、研究が出來るのであります。かういふ法則を發見したといふことは非常な偉いものでありまして、日本でも支那の事を研究した人があり、日本の事を研究した人もありますけれども、斯ういふ風にその自分の研究の方法に論理的基礎を置いた人がないのであります。それはこの富永が初めて置いたと言つて宜しいのであります。私はその點に於て、大阪が生み出したといふより日本が生み出した天才として、これは立派な第一流の人であると言つてよいと思ふのであります。私が曩に懷徳堂で斯ういふことを申しました時、日本で天才の學者といふものを五人擧げれば、必ず富永がその一人にはいるといふことを申しましたが、筆記する人が間違つて、五人を省いたその次の第一人が富永といふ風に筆記したと見えまして、私の手許に來た筆記がさうなつて居ります。それによつて書いた「池田人物誌」にもさういふ風に出て居りますが、それは間違ひで、私はもつと富永を偉く見て居るのであります。大阪には隨分澤山學者がありましたが、兎も角、學問を、今日の言葉で言へば科學的に組織立つた方法で考へたといふのは、此人より外にない。これは大阪ばかりでない、日本中にこの位の人はないのであります。その點が非常に偉いと思つて居るのであります。
それから富永は、學問といふものに國民性があるといふことを考へたのであります。その當時に印度と支那と日本との國民性について斯う考へたのである。印度人の國民性を一言にして「幻」と批評し、支那人の國民性を「文」、日本人の國民性は「質」或は「絞」と、絞といふのは正直過ぎて狹苦しいのでありますが、兎も角一字で批評をしたのであります。僅か一字で大變よく批評してあると思ひます。印度人は何でも空想的なことを好みまして、前にも言うた通り、芥子粒の上に須彌山が現じたりするといふ風に、大變突飛な魔法使みたやうなことを考へる。それでお釋迦さんの所謂外道、佛
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