教の外の印度の各派宗教のやるのは幻であつて、佛教の方でやるのは神通である。幻と神通が違ふと申しますけれども、實は幻も神通も同じもので、手品使が印度人に近い手品に合ふやうな宗教を組立てたと、斯ういふことを言ひました。支那人は何でも文飾を好む、言葉でも何でも飾る、飾らんと承知しないので、それで支那人の國民性は文であります。日本人は至つて簡單な正直な考へで、いろ/\幻みたやうな文みたやうな、目まぐるしい※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りくどい奴にぶつかると、日本人の頭では分らなくなつて、何か見當が付かないから、日本人は正直な眞つ直ぐな、手短かに言うた方が一番分りがよいので、それで日本人は質とか絞とかいふことになる。斯ういふ風に三通りの國民性があつて、各※[#二の字点、1−2−22]國民性によつてその國々の宗教を組立てるのであるから、外の國の宗教を自分の國に移すときには、自分の國に合ふやうに之を變形しないとうまく合はない。印度の幻術的な宗教、何かといふと十萬億土などといふ取留めもない目まぐるしいことは、日本に應用することは出來ない。日本に應用するときには、もつと手短かな、手つ取り早くしなければ日本人には入らない。支那の文でも、非常な細かい、文飾が煩はしくては日本には行はれない。日本人にはそれをもつと簡單に手つ取り早くしなければならぬ、と斯ういふことを言つて居ります。これは尤も富永自身の發明ではないと言つて居ります。支那の隋に文中子といふ人がありまして、佛教は西方の聖人の教へである、之を支那に行はんとすると泥む、そこに拘泥することになつて來る、支那にはその儘行はれにくいと文中子が言つて居ります。それを富永が引いて居ります。それから富永は支那と日本との比較を考へて、兎も角各國民には國民性があるから、國民性によつて宗教といふものが成立つのであるといふことを考へました。此等は今日から觀ると非常な卓見と謂はなければならない。まだいろ/\のことがありますけれども、先づこれが「出定後語」の大體であります。

       支那學研究の原則と神道の批判――「説蔽」・「翁の文」

 その外に、富永仲基に「説蔽」といふ、これは儒教を攻撃したと言はれて居る本がありますが、その内容は今はよく分りませぬ。しかし「翁の文」といふ本が現はれて來て「説蔽」の中にどういふ事が書いてあるかといふこと
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