變よい考へだと思ひます。
三「三物五類立言之紀」の論理
それからその外に非常にえらいことを考へて居ります。「言有三物」といふことを申しました。これが富永の論理の組立であります。それは言有人、言有世、言有類と申してあります。その言に類有りを五類に分けます。泛と磯と反と張と轉と斯ういふ五類に分けます。さうして之を總べて「三物五類立言の紀」と申し、これが富永の研究方法、論理の組立であります。
「言に人有り」といふのはどういふことかと申しますると、その言ひ傳へ、説といふやうなものは、人によつて異るといふことであります。それで同じ事でも、人によつて解釋も違ふ、言ひ傳へも違ふ、いろ/\の人によつて違つて來ることを云ふのであります。支那では之を一家言と申しまして、皆人によつて言ひ傳へが違ふので、即ち異部名字と同じやうなことであります。
「言に世有り」といふ、これは時代によつて違ふことを申します。それは例へば佛教の飜譯です。佛教が支那に飜譯される時に、サンスクリツトの飜譯について、玄弉三藏などにサンスクリツトの何々といふ言葉は支那でどういふ意味だ、舊譯に何々と譯したがそれは誤りだと屡※[#二の字点、1−2−22]書いてあります。それで支那の佛教に、玄弉三藏の飜譯とその以前の飜譯とによつて舊譯新譯の區別がありまして、舊譯が不確かで間違で、新譯の方が確かであるといふが、これは單に意味ばかりでなく、そのサンスクリツトの音を支那の文字に當て嵌めるについても、例へば坊さんのことを舊譯では比丘と書いてありますが、新譯の方では※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]芻としてある、それで※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]芻といふのが正しくて、比丘といふ字を當てたのは誤りである、斯ういふやうに申しますが、富永は、その舊譯を皆誤りといふ譯にはいかない、印度といふ國は言葉の國である、言葉といふものは時代によつて段々違つて來る、發音も違つて來れば意味も違つて來る、その違つた時代に支那で之を飜譯したのである。支那で佛教を最初に飜譯した時と玄弉三藏の時とは、既に數百年も經て居りますから、その間に印度の元の言葉にも、音の變化もあれば意味の變化もある。それでさういふ風に時代によつて言葉が變つて來るのであるから、それを知らなければ研究の方法を誤るといふことを考
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