へたのであります。
「言に類有り」といふのは、次の五類に分けてあります。第一「泛」と申しますのはどういふことかといふと、何か一つの、或物の名前とか考へとか、固有名詞であつたものが、それが後になると變化して普通名詞になる。最初の事實は何か一つの片寄つたもの、極まつたものについての名前であつたのが、それが段々に意味が擴がつて、それが普通の意味になり、名前になるといふことを「泛」といふのであります。「磯」といふことは、多分これは孟子の中に「以て磯すべからず」といふ言葉がありますから、それから來たと思ひます。言葉を激しく言ふ、強めて言ふ、意味を強めて言ふことであります。誇張するといふ程ではありませぬが、その爲に少し言葉の意味に變化が出來ます。「反」といふのは、前からの説と反對に解釋するのであります。「張」といふのは即ち誇張することでありまして、今までの意味を大袈裟に言ふことであります。富永が例を擧げて居りますが、例へば成佛――佛教で成佛するといふことについて、あらゆる世の中の物を有情・非情の二つに分けまして、本來の説は有情のものが成佛すべきである。併し佛教が段々説を擴めて、山河草木悉皆成佛と、非情の物までも、意識のない鑛物とか草木までも成佛といふ風に説いて行くのが、それが「張」といふことであります。「轉」といふのは、意味が轉ずる、前の「反」といふ程全く反對ではありませぬが、意味が轉化するといふことであります。富永が例を擧げて居りますが、初めは一闡提を除いて皆佛性があると説いたが、後にはその一闡提さへも佛性があるといふ風に説が轉じて行つた。斯ういふ風に、言葉の意味は段々と轉化するものである。五類の働きによつて教義の發展が出來るのでありますから、五類といふことを知らなければ佛教の研究は出來ないと、斯ういふことを言つたのであります。

          四 其の他の學説

 それから之について富永がその外の事にも渉つて論じて居りますが、よく佛教家は印度の言葉即ち梵語は多義である、意味が多い、それで印度の言葉は尊いのであると解釋するが、富永は何處の國の言葉も多義であるとして、大阪の俗語の例を擧げて例にして居ります。大阪で放蕩者のことを「たわけ」と、その頃言つたのでございます。近頃は「極道」と言うて、餘り「たわけ」と言はない。放蕩者の「たわけ」といふことを、支那の文字の放蕩といふ意
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