大阪の町人と學問
内藤湖南
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大阪の町人の學問については、豫て私の友人幸田成友君などが隨分精細な調べをされて、大阪市史にも載せられて居るから、私が茲に語らんとする所は、大阪の町人と學問との關係について、私一個の考察を申述べるに過ぎない。而も此等の事に關しては、懷徳堂で嘗て山片蟠桃の話をし、この次ぎに富永仲基に關する話をする約束があり、又嘗て土屋元作君が橋本宗吉に關して精しいお話があつて、此等の人々はいづれも大阪の町人學者であるから、茲には唯一般的な大體に亙つた樣な考へを述べて見ようとするものである。
近世の大阪が開けて大都會となり初めたのは、言ふまでもなく豐太閤の時からであるが、豐臣氏は間もなく亡んだから、其後の大阪は徳川幕府の時代に發達したものである。徳川時代に於ける大阪は重要な場所であつたが、幕府の御膝下といふのでもなく、唯經濟的都市、商賣の都として重要な都市とせられ、而してこの商賣の都といふことが時の文化に貢獻した譯であつた。元和の元年に豐臣氏が亡んで間の無い間は、大阪には學問らしいものがあつても、それは徳川時代に於ける商賣といふ點から出發した學問ではなく、豐臣といふ武家によつて創められた大都會といふ關係に基く學問の風であつた。この頃に於て、今日では學界からも一般世間からも注意を逸して居るが、漢學の方では、かなり注意を拂ふべきものがこの大阪から出て居る。それは如竹散人といふ人であつて、この人は足利時代あたりから引き續いた宋學の正統を受けた人である。彼の薩摩の國の人で有名な文之といふ僧侶があつたが、是が四書に訓點をつけた元祖であつて、彼の藤原の惺窩の如きすら文之から盜んだものであるとさへ傳へられる位であるが、如竹は此の文之の學問を承けたのであつた。この如竹は大隅の屋久島の産で、文之點の四書を出版した事に於ても有名である。丁度明治大正の時代に於て大阪に漢學を復興したのは西村天囚君で、同君は種子ヶ島の生れで、その隣りから如竹が出て、而もその如竹は大阪に於て漢學を復興したとはいへない迄も、相當大阪の學問に貢獻したといふことは、甚だ不思議な因縁といはねばならぬ。如竹は間もなく大阪を引き上げ、天囚君は三十年も大阪に居つて愈※[#二の字点、1−2−22]此度大阪を去ることゝなつた、これは西村君の學問が大阪に合はないのであらうか、私が考へるより大阪の諸君にお尋ねするのが至當であらう。
幸田君の大阪市史によると、大阪に於ける初期の漢學者は大抵醫者を兼業して居つた。古林見宜でも北島壽安の如きも醫者兼業であつたといふが、是は大阪ばかりではなく一般當時の漢學者でも飯を食はねばならぬところから飯の種は醫の方でやる、そして食ふ心配なしに學問をやるといふところから兼業をしたもので、伊藤仁齋の頃迄其兼業が善いか惡いかといふことについて説があつた位であるから、大抵の漢學者は醫者を兼業して居つたといふことを知ることが出來る。然しながら今迄述べた樣な學者は、商賣の都としての此大阪の畑に育つた學者ではない、そして是れから暫くの間は學者の種は繼續せなかつた。
大體文化といふものが大阪に盛になつたのは元禄以後である。それは大阪ばかりではない、江戸でも同樣で、元禄以前には江戸の畑で生れた學問はなく、皆京都から輸入された學問であつた。徳川の中頃過には江戸でも音曲家や芝居の役者等は出來たが、元禄以前は京都から輸入されて居る。大阪では硬い方の學問は京都から輸入されるといふことも無かつた、それは輸入を受けるだけの畑すら出來て居なかつたからであらうと思ふが、淨瑠璃、芝居、音曲等の軟かいものは矢張り京都の方から輸入されて居たものである。要するに元禄以前の大阪の學問は誠につまらないものであつたといふことになる。勿論商賣の方では藏屋敷も出來、兩替屋等も出來て、商業は餘程盛に營まれて居つたが、學問の方は商賣とは反對に殆ど見るべきものがない。
元禄以後になつても、大阪といふ土地相應に、硬い方の學問が興らずに軟かいもの、則ち平民文學といつた樣なものが先づ最初に興つた、西鶴等は其代表者である。大阪が町人の都として、經濟的の都市として、平民的文學といふ特色を持つて居る。其の西鶴の書いたものは、一概に淫奔的なものといふが、此時代から見て之を今日の言葉でいふならば解放された文學である。西鶴以前即ち足利時代から引き續いて行はれた草紙等といふものは、お伽噺的のものであつて頗る古典的のものである。支那では漢時代から「賦」といふものがある、此の賦の中には其地方々々の自慢になるものを聚めて、面白い文句を以て書いたものがあるが、足利時代のお伽草紙の樣なものは多く此の賦に相當するものである。彼の「淨瑠璃十二段草紙」等は皆古典的のものであつて、是が徳川時代迄繼續した。そして是が人形芝居や小淨瑠璃に應用されても、矢張り皆この體裁で書くことになつて居た。西鶴の書いたものは此點からいふと、古い型に囚はれず、當時の人の興味を惹く樣に書いたものであるところから、古典的の智識の無いものが讀んでも判ることになつて居る。尤も西鶴の書いたものは、今日から見れば、なか/\判り難いものであるが、當時の俗語や諺や比喩其の他のものを巧に書きこんであつて、當時にしては甚だ囚はれざる解放的のものであつた。さういふものから後になつて義太夫節にかゝる近松の淨瑠璃が出來た。近松門左衞門其の人は古典的と解放的との二つの文學を一人で持つて居るから、當時の時代と文學の傾向がよくわかる。享保以前の近松の淨瑠璃は古典的で、之を時代物といひ、又唐人物といつた彼の國姓爺合戰の如き、其芝居が足かけ三年つゞけてうつて尚流行つたが、國姓爺後日合戰を出した時にはそれ程人氣を呼ばなかつたといふことで、茲に於て近松は一轉して世話物を書くことになつた。勿論前から少しは世話物もかきつゝあつたが、專ら世話物で當てたのは享保初年以後であつた。かくの如く此人の一代の作物の傾向――古典的から解放的に――で大阪の文學の變り目がよく判るわけである。以上は軟かい方の文學に就ての話である。
硬い方の學問の内、國學の方からいふと先づ契沖阿闍梨を擧げねばならぬ。契沖の前には下河邊長流といふものがある。其の目的とするところは古典であるが、其の研究法は解放的であつた。大體此の頃の國學特に歌學は足利時代からの繼續で、家元の許しを得なければ何事も出來ない、家元と變つた行き方をするとすぐ破門されるといふ具合で、學問の仕方は甚だ拘束されたものであつた。是れは今日の考へでいへば智識階級の自衞策であつて、自分の學問を擁護する爲めに、之を無暗に解放せないといふことである。徳川時代でも此の頃迄は此の拘束された學問の仕方を有難がつたものであるから、全く解放的の氣分はなかつたもので、是より前に江戸では梨本茂睡といふものが解放的な歌學をやつて、二條冷泉家に反抗したが、我國學史の位置からいへば到底契沖阿闍梨の比ではない。二條冷泉家では古今集の傳授を其の繩張りとして甚だ喧かましいものであつたが、下河邊長流や契沖はその喧かましくない萬葉集を解釋しようとし、恰かも其拔け道から解放された歌學をやつて、二條冷泉家以外に旗幟を樹てた。これは研究法の方の話であるが、其の他に先達物故された法學博士、文學博士有賀長雄君の先祖有賀長伯一家の歌學といふものがある。此の方は公卿のやる樣な歌を地下人である大阪でもやりはじめたものであつて、これから後公卿のやる國學を地下人がやることになり、歌ばかりでなく地下の蹴鞠とて公卿のやる蹴鞠迄やつて見た。これは研究法の解放といふわけではないが、公卿のやる事を地下人がやるといふ事になつて、畢竟公家の學問が地下に迄解放された事となつたもので、此の事實も大阪の文化の發達の上に忘れてはならぬことである。勿論かゝることは我國全體から見て學問の進歩の上に大した影響はなかつた事であるが、大阪としては忘れることが出來ない、この頃は元禄時代に相當する。
漢學の方はこれとは少し遲れて享保頃からで、懷徳堂の元祖三宅石庵が大阪で教授をしたのが先づ始めであつて、それ迄にも學者がなかつたわけではないが、眞に町人の要求から興つた漢學は是を以て嚆矢とする。石庵の學問は鵺學問といはれた位で、朱子派でもなく王陽明派といふでもなく、朱子も王陽明もゴツチヤにした樣なものであつたが、町人の要求する所は朱子でも、王陽明でも何でもかまはぬ、唯道徳の修養になればよいのであるから、石庵の樣な學問でも歡迎を受けたものである。彼の懷徳堂を開いた五同志の如きも皆大阪の町人であつて、是等町人の要求するところは道徳の修養の爲めである以上、主として經學の方面であつて、詩文の方はどうでもよい。當時の漢學は先づ大要斯樣な程度のものであつた。懷徳堂の規約を作つたのは道明寺屋吉左衞門(富永芳春)といふ人であるが、其の規約に書いてあるところによると、親が學主であれば其子は絶對に學主となることは出來ないといふのが原則で、若し親が學主を他の人に讓つて、その後に於て其子が修業して良くなれば、その讓られた他の人から其子に學主を讓ることは出來るが、あく迄も血統からの相續を排斥して居るところなど、今の選擧制度の一として留任や重任を禁じて居る樣なものと相比べて面白いと思ふ。懷徳堂の此規約も後にはだん/″\弛んで父子に相續した樣な事もあるが、其の創立當時の五同志の時代には斷じてなかつた。かくの如く懷徳堂の組織は門閥の素地を作るをさけた頗る民衆的解放的のもので、本當の大阪の漢學といふものが大阪に根柢を作つたのは全く此の頃からである。道明寺屋吉左衞門は假名をよく書いたといふことであるから、漢學ばかりでなく書も能くしたらしいが、此の人たちが大阪の學問の根柢を作るに與つて力があつたことは言ふ迄もない。其の吉左衞門の子富永仲基の學問は甚だ解放されたものであつた。三宅石庵の學問は前にも言つた通り朱子でもなく、王陽明でもない、町人には頗る便利な學問であつたが、漢學を眞に批評的に考へるといふ風は町人の學問としては全く此の仲基によつて創められた。
又仲基は佛教に關しても造詣頗る深く著述もある位である。仲基は先づ「説蔽」なる著作に於て儒教を批評し、「出定後語」を著はして佛教の批評をしたが、説蔽を書いたが爲めに其師三宅石庵から破門された。尚仲基は「翁の文」といふ著述に於て國學に關する意見を發表したものと思はれる、不幸にして翁の文は説蔽と共に絶えて今に見當らないが、翁の文の方は心當りを搜索して、發見し得られるものとの、手がかりだけはついて居る。此三著述が揃つたならば一度仲基のお祭でもして見たいと心掛けて居るが、兎も角仲基が町人であつて儒佛國學に通達して居つたことは我々の感嘆おかぬ所である。彼れは其の出定後語に於て、學問も國相應といふことがある、即ち天竺は幻、支那は文、などゝ批評して居るが、甚だ卓見であつて、定めし翁の文には國學に對して卓見を示して居ることだらうと思ふ。而も富永一家は仲基のみでなく、其弟の蘭皐は池田の荒木といふ家に養子に行つたが、當時池田には荻生徂徠の門人田中省吾なるものが隱れて居て、それから教へを受けたらしい。かくの如く富永一家は親子兄弟揃つて學者であつた。出定後語は仲基が黄檗山にカノ藏經の校合を手傳ひに行つて居る間に藏經を讀んだから作れたものであると言ひ傳へられて居るが、昔から僧侶には藏經全部を讀んだ人は決して尠くはない、けれども仲基程に卓見を持つて居た人は一人もないのであるから、藏經を全部讀んだお蔭で出定後語の樣なエライ本が出來たなどゝいふのは、僧侶輩の僻んだ根性から言つたことで採るに足らぬ妄言である。大體印度の佛典といふものは
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