、時間と空間の觀念がない樣な書き振りをしたものであるが、仲基が出定後語に於てそれを歴史に合はす樣に讀んだといふことは、甚だ感服の外ないもので、畢竟仲基は佛教の發展の歴史的研究をした人であるといつてよい。僧侶に言はせると仲基は佛教を惡しざまに言つて居ると解して居るが、仲基の佛學はそんなものではない、佛教の發展の筋道を研究したものであるといふことは、其書を見ても明瞭である。仲基の佛學といつても其研究の筋道は漢學から入つたものであつて、其の學問が大阪の町人の利益にならうとかならぬとかいふことを念頭に置かず、全く時代と歴史とに超越した考へでやつたものである。そして是等の如き學者を生んだことは、大阪の學問が平民の手に移り、解放された結果として偶然に生れたもので、他に深い理由があるわけではないと思ふ。
 佛學の方では此の他に難波に居た鐵眼和尚といふのがある、彼の有名な「黄檗の藏經」の出版は全く鐵眼によつて出來たもので、それも大阪の町人の後援があつて初めて完成したものであらうと思ふ。支那では北宋の太祖太宗の時に出來た藏經は官版であつて、散逸して今其全部を見ることが出來ない。先年南禪寺で僅に其の一册が發見された位で殆ど見ることが出來ないが、其の後蘇東坡の頃即ち神宗の頃から以後には、民間の喜捨によつて出版された藏經がある、一つは浙江板といひ、一つは福州板で、東禪院板と開元寺板とが繼續して居る。日本では是とは遲れて藏經が出版されて居る、鎌倉時代の元寇の頃に藏經の出版が企てられたが出來ずに終つたらしく、それから南北朝時代にかけて五部の大乘經が出版された、然しこれとても武家の後援で出來たものであり、又天海僧正が藏經の出版をしたけれども、それも徳川幕府の力で出來たものであつて、支那では既に北宋の終りの頃に民間の力で藏經は出版されたが、日本では鐵眼の黄檗の藏經が民間の力で出版された初めである。而も此の鐵眼の黄檗の藏經は四角い册子の形をして居る、これは明の萬暦年間に出來た藏經と同じ形をして居るものであつて、由來藏經の折本は寺等に保存して置く上にはさしたる不便を感じないが、之を世間に流布する上には折本は嵩張つて不便であるから、是を册子としたことは藏經を世間に流布する上に效果があつたであらう。勿論此の黄檗の鐵眼板は鐵眼存生中に完成したものではあるまいが、此の計畫は鐵眼によつて達成されたものである。かくの如く大阪の町人の後援により而も大阪の僧鐵眼によつて爲された藏經であるが故に、富永仲基の如きも手易く藏經を見ることが出來たものであらうと思はれる。
 鐵眼は元禄以前に死んだが、是より後に出て佛學の新研究をした人は葛城の慈雲尊者(前に中河内の高井田に居た)である。此の人は眞言律宗の僧とはいひながら、何の宗旨にも囚はれず、殆ど各宗を統一し新しい見解をたてた人であつて、梵語の研究を纏めたといふ樣な功績があり、日本の佛教の新研究には重大な關係を持つて居る、此の人は寛政を中心とした時代に居つたのである。
 大阪の學問はかくの如く平民的、民衆的になつて來たが、これは享保年間が中心時期である。此の時代は京都にも江戸にも、見ることが出來ない學問の特色を發揮することが出來たのであつて、これは大阪なる都市が經濟の都市としても、江戸にも京都にも勝れて居つた時代であつたが爲めに、かくの如き他に見るを得ざる平民化の特色を發揮し得たものであらうと思ふ。
 其の後は左樣には參らず、國學も此の地に發祥したが他に移り、淨瑠璃の如き通俗文學も其の價値は減ずる樣になり、人形芝居の如きも人形ばかりが發達して淨瑠璃の文句の方は拙惡になり、漢學の方でも懷徳堂は永く續く間には學問の系統も門閥的になり、懷徳堂其のものにもいろ/\門閥が出來た。丁度此の頃は徂徠學が盛になつて來たから、懷徳堂としては朱子學を固執せなければならなくなつたのではあらうけれども、懷徳堂創設當初の意氣がなくなり、昔と違つて漢學の修業は唯道徳の修養の爲めだとは濟して居られず、詩文などでもやることになつた。中井竹山の如きは甚だ稀な偉い人ではあつたが、背景として幕府を利用するといふことを考へ、此の懷徳堂は政府から許された官學であるといふ樣なことを言ひたがり、教授といふ樣な肩書を書きたがつたりした。これは町人がだん/\門閥的となり、最初の意氣が無くなつた結果であらう。
 此の後に山片蟠桃、鴻池の伊助(草間直方といふ)、蘭學で名高い橋本宗吉等町人の學者がでた。蟠桃は其の音の示す如く番頭で、伊助の如きも大阪町人の檀那衆ではなく番頭であつて、丁稚から上つた學者である。
 當時の檀那衆は既に門閥となり、恐らく商賣の事も判からず、勿論學問もせず、使用人に何事も任かせ限りであつたものだから、文化の中心も使用人に集まり、經濟の仕方も皆丁稚や番頭の手に移り、學問も使用人の學問となつて終つたものである。これが享保以後の特別目立つた大阪の學問の系統である。
 かくの如く町人が門閥になつてからの檀那衆の學問を代表するものは木村蒹葭堂である。蒹葭堂は酒屋の檀那であつたが、此の人の學問は商賣には何の關係もなく、又道徳の修養とかいふ爲めでもなく、ホンノ道樂が昂じていろんなものを集めた結果から纏めることが出來た學問である。其の他種々な學問もあり、いろんな學者も大阪に出來て居るが、大體の筋道は先づ以上の通りであつて、題して大阪の町人と學問とはいふが、大阪文化史の一部とも見ることが出來よう。
 明治以後は全くこれとは別であつて、徳川時代に於ける大名を對手とするといふ樣な商賣の仕方が亡び、新しい時代の大阪となつたが、是を時代的に觀ると、現時の大阪は丁度桃山時代から寛文延寶頃の大阪に相當するものであつて、時代の文化といふ方面からいふと、全く今の大阪は暗黒な時代である。檀那衆即ち今の言葉でいふ資本家から大した學問のある人も出來ず、さりとて使用人の方からも大した學者も出て居ない。強ひて明治時代の大阪の學問を代表するものを需めるならば、それは大阪醫科大學位であつて、徳川時代の初期の大阪の學問は醫者が兼業して居たといふが、大阪醫科大學が現時大阪の學問の中心であるといふならば、丁度それに相似て居るのも面白い對照である。
 徳川時代の大阪の檀那衆の典型ともいふべき人で、私の知つて居るのは故平瀬龜之輔氏であつた、聞くところによると、平瀬氏は何を聞いても知らぬと言はれたことはないが、其の自分の商賣の事だけは何一つ知らなかつたといふことである、ところが平瀬家は商賣の方で振はないことがあつたが、其時は商賣に關係なしに唯道樂で集めた骨董品で商賣の損害を償はれたといふ話がある。此の徳川末期の町人の門閥家の代表的人物である平瀬氏は幸にして知つて居たが、今後明治大正以後の新しい大阪で學問ある町人の典型を私共が生きて居る間に見ることが出來るであらうか、どうか早くそれを見たいものだと樂んで待つて居る。
[#地から1字上げ](大正十年某月大阪に於て講演)



底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年4月10日発行
   1976(昭和51)年10月10日第3刷
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
   1930(昭和5)年11月発行
初出:大阪における講演
   1922(大正10)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年11月28日公開
2006年1月13日修正
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