お伽噺的のものであつて頗る古典的のものである。支那では漢時代から「賦」といふものがある、此の賦の中には其地方々々の自慢になるものを聚めて、面白い文句を以て書いたものがあるが、足利時代のお伽草紙の樣なものは多く此の賦に相當するものである。彼の「淨瑠璃十二段草紙」等は皆古典的のものであつて、是が徳川時代迄繼續した。そして是が人形芝居や小淨瑠璃に應用されても、矢張り皆この體裁で書くことになつて居た。西鶴の書いたものは此點からいふと、古い型に囚はれず、當時の人の興味を惹く樣に書いたものであるところから、古典的の智識の無いものが讀んでも判ることになつて居る。尤も西鶴の書いたものは、今日から見れば、なか/\判り難いものであるが、當時の俗語や諺や比喩其の他のものを巧に書きこんであつて、當時にしては甚だ囚はれざる解放的のものであつた。さういふものから後になつて義太夫節にかゝる近松の淨瑠璃が出來た。近松門左衞門其の人は古典的と解放的との二つの文學を一人で持つて居るから、當時の時代と文學の傾向がよくわかる。享保以前の近松の淨瑠璃は古典的で、之を時代物といひ、又唐人物といつた彼の國姓爺合戰の如き、其芝居が足かけ三年つゞけてうつて尚流行つたが、國姓爺後日合戰を出した時にはそれ程人氣を呼ばなかつたといふことで、茲に於て近松は一轉して世話物を書くことになつた。勿論前から少しは世話物もかきつゝあつたが、專ら世話物で當てたのは享保初年以後であつた。かくの如く此人の一代の作物の傾向――古典的から解放的に――で大阪の文學の變り目がよく判るわけである。以上は軟かい方の文學に就ての話である。
硬い方の學問の内、國學の方からいふと先づ契沖阿闍梨を擧げねばならぬ。契沖の前には下河邊長流といふものがある。其の目的とするところは古典であるが、其の研究法は解放的であつた。大體此の頃の國學特に歌學は足利時代からの繼續で、家元の許しを得なければ何事も出來ない、家元と變つた行き方をするとすぐ破門されるといふ具合で、學問の仕方は甚だ拘束されたものであつた。是れは今日の考へでいへば智識階級の自衞策であつて、自分の學問を擁護する爲めに、之を無暗に解放せないといふことである。徳川時代でも此の頃迄は此の拘束された學問の仕方を有難がつたものであるから、全く解放的の氣分はなかつたもので、是より前に江戸では梨本茂睡といふものが解放的な
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