歌學をやつて、二條冷泉家に反抗したが、我國學史の位置からいへば到底契沖阿闍梨の比ではない。二條冷泉家では古今集の傳授を其の繩張りとして甚だ喧かましいものであつたが、下河邊長流や契沖はその喧かましくない萬葉集を解釋しようとし、恰かも其拔け道から解放された歌學をやつて、二條冷泉家以外に旗幟を樹てた。これは研究法の方の話であるが、其の他に先達物故された法學博士、文學博士有賀長雄君の先祖有賀長伯一家の歌學といふものがある。此の方は公卿のやる樣な歌を地下人である大阪でもやりはじめたものであつて、これから後公卿のやる國學を地下人がやることになり、歌ばかりでなく地下の蹴鞠とて公卿のやる蹴鞠迄やつて見た。これは研究法の解放といふわけではないが、公卿のやる事を地下人がやるといふ事になつて、畢竟公家の學問が地下に迄解放された事となつたもので、此の事實も大阪の文化の發達の上に忘れてはならぬことである。勿論かゝることは我國全體から見て學問の進歩の上に大した影響はなかつた事であるが、大阪としては忘れることが出來ない、この頃は元禄時代に相當する。
漢學の方はこれとは少し遲れて享保頃からで、懷徳堂の元祖三宅石庵が大阪で教授をしたのが先づ始めであつて、それ迄にも學者がなかつたわけではないが、眞に町人の要求から興つた漢學は是を以て嚆矢とする。石庵の學問は鵺學問といはれた位で、朱子派でもなく王陽明派といふでもなく、朱子も王陽明もゴツチヤにした樣なものであつたが、町人の要求する所は朱子でも、王陽明でも何でもかまはぬ、唯道徳の修養になればよいのであるから、石庵の樣な學問でも歡迎を受けたものである。彼の懷徳堂を開いた五同志の如きも皆大阪の町人であつて、是等町人の要求するところは道徳の修養の爲めである以上、主として經學の方面であつて、詩文の方はどうでもよい。當時の漢學は先づ大要斯樣な程度のものであつた。懷徳堂の規約を作つたのは道明寺屋吉左衞門(富永芳春)といふ人であるが、其の規約に書いてあるところによると、親が學主であれば其子は絶對に學主となることは出來ないといふのが原則で、若し親が學主を他の人に讓つて、その後に於て其子が修業して良くなれば、その讓られた他の人から其子に學主を讓ることは出來るが、あく迄も血統からの相續を排斥して居るところなど、今の選擧制度の一として留任や重任を禁じて居る樣なものと相比べて面白
前へ
次へ
全9ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング