竹が出て、而もその如竹は大阪に於て漢學を復興したとはいへない迄も、相當大阪の學問に貢獻したといふことは、甚だ不思議な因縁といはねばならぬ。如竹は間もなく大阪を引き上げ、天囚君は三十年も大阪に居つて愈※[#二の字点、1−2−22]此度大阪を去ることゝなつた、これは西村君の學問が大阪に合はないのであらうか、私が考へるより大阪の諸君にお尋ねするのが至當であらう。
幸田君の大阪市史によると、大阪に於ける初期の漢學者は大抵醫者を兼業して居つた。古林見宜でも北島壽安の如きも醫者兼業であつたといふが、是は大阪ばかりではなく一般當時の漢學者でも飯を食はねばならぬところから飯の種は醫の方でやる、そして食ふ心配なしに學問をやるといふところから兼業をしたもので、伊藤仁齋の頃迄其兼業が善いか惡いかといふことについて説があつた位であるから、大抵の漢學者は醫者を兼業して居つたといふことを知ることが出來る。然しながら今迄述べた樣な學者は、商賣の都としての此大阪の畑に育つた學者ではない、そして是れから暫くの間は學者の種は繼續せなかつた。
大體文化といふものが大阪に盛になつたのは元禄以後である。それは大阪ばかりではない、江戸でも同樣で、元禄以前には江戸の畑で生れた學問はなく、皆京都から輸入された學問であつた。徳川の中頃過には江戸でも音曲家や芝居の役者等は出來たが、元禄以前は京都から輸入されて居る。大阪では硬い方の學問は京都から輸入されるといふことも無かつた、それは輸入を受けるだけの畑すら出來て居なかつたからであらうと思ふが、淨瑠璃、芝居、音曲等の軟かいものは矢張り京都の方から輸入されて居たものである。要するに元禄以前の大阪の學問は誠につまらないものであつたといふことになる。勿論商賣の方では藏屋敷も出來、兩替屋等も出來て、商業は餘程盛に營まれて居つたが、學問の方は商賣とは反對に殆ど見るべきものがない。
元禄以後になつても、大阪といふ土地相應に、硬い方の學問が興らずに軟かいもの、則ち平民文學といつた樣なものが先づ最初に興つた、西鶴等は其代表者である。大阪が町人の都として、經濟的の都市として、平民的文學といふ特色を持つて居る。其の西鶴の書いたものは、一概に淫奔的なものといふが、此時代から見て之を今日の言葉でいふならば解放された文學である。西鶴以前即ち足利時代から引き續いて行はれた草紙等といふものは、
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