であらうと思はれる。此等は隨分古くから織物の發達したといふことを徴すべきものである。其の外、※[#「糸+曾」、第3水準1−90−21]若しくは帛といふ文字の如きは、絹織物の總名として使用せられて居つたので、其の産出が尠なからざりしことを推測することが出來る。
 又染物のことに就いても爾雅に、
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一染謂之※[#「糸+原」、39−7]。再染謂之※[#「赤+頁」、第4水準2−92−27]。三染謂之※[#「糸+熏」、39−7]。
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とあり、又周禮の考工記には、
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三入爲※[#「糸+熏」、39−9]。五入爲※[#「糸+取」、39−9]。七入爲緇。
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といふことがあつて、染物の發達も想像せられる。但然し之を實物に徴する事は今日では殆んど難かしい。支那に於ける從來の發掘品でも、發掘者の不注意の爲か、三代の織物が發掘せられたことは無い。其の時の製作法がずつと後世迄も傳はり、六朝から唐代迄傳はつた者があるかも知れぬ。例へば錦といふ樣な文字は、其の時分から後世迄共通されて居るけれども、果して三代の時の錦、例へば貝錦と六朝以後のものとが同樣であるかどうかは、判斷を下し難い。虞の十二章などの説明から考へると、餘程原始的なもので、今日の苗族とか南洋地方などの織物の樣な種類ではないかと考へられるが、併し禹貢にある織物などは、又それとは異つて餘程發達したものゝ樣にも考へられる。一口に先秦時代といつても、大變長い年數を經て居るのであるから、一樣には考へられない。先づこの時代のものは實物から證據立てることはむづかしいといふより外は無いのである。
 其の次の時代になり、兩漢三國六朝頃になると、此等はいくらか少くとも實物をたよりに想像し得られるのである。尤も今日迄實物で織物の文樣のある者など多く見たこともないが、我邦等でも漢から六朝迄の間の鏡鑑が古墳から出る時に、それを包んだ切《きれ》が附着して出ることがある。勿論その色合、地合等は分らなくなつて居るけれども、其の織法《おりかた》ぐらゐは想像し得られるのである。一方では漢代より六朝へかけては、既に織物の名稱が隨分種類が多くなつて、極く手近な所でいへば、當代の字書類、例へば説文解字とか、釋名とか、玉篇とかいふものに集められてある。そして其の名稱が唐時代と同じものがあ
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