の職を承つたのである。東晉宋齊の間に使者に行き、若しくは交通を司つたものは皆支那の歸化人であることは、姓氏録などを見るとわかる。其の姓《かばね》を見ても、譯語《おさ》と謂ひ史《ふびと》と謂ひ文首と謂ひ船首と謂ふ種類は、皆此の海外交通に關係して船の運上に關する文書などを司り、貨物を檢査して居つたので、それが又|史《ふびと》であり其の外にも朝廷並に豪族にも各※[#二の字点、1−2−22]歸化人の文書を司る者があつたらしいから、それらの手に據つて支那の文字を利用し帳簿などを製造することは早くから行はれて居つたものであらう。外交の事は朝廷でもそれらの輩に委任して置くのが至極便利であるので、朝廷で自ら記録を作る必要をも考へなかつたらしい。
此等の歸化人は海外に派遣せらるゝ際、朝廷より貿易に關する御趣意を承つて、海外から珍貨を齎らし、若しくは技人《てびと》を召しつれ歸るべき任を帶びて行く。斯くして支那に到着すると、支那はむやみ[#「むやみ」に傍点]に體面を重んずる國であり、海外より來る者は之を蠻夷の使者として、國王の上表などが無ければ通《とほ》りが惡い。それで譯語、史《ふびと》、等は支那の外交を司る鴻臚寺などの官吏と諜し合はせて、うまく上表を作り、それを支那の天子に上りてその自尊心を滿足させ、思ふ儘に日本朝廷の使命を果たして歸るので、之が當時の使者及び譯官の祕訣であつたに相違ない。斯の如きことは遙に後世まで支那では行はれたので、明代に於て四譯館に保存されてあつた各國の上表などに據つて考へても善くわかるので、譬へば滿州地方の女眞人からの上表などには女眞文字女眞語で上表を書いてはあるが、其の文法は支那語の文法で、先づ支那文が出來てからそれを女眞語に直譯した形迹の歴然として存するものがある。其の國字を有つて居る國の上表でさへも斯の如くであるから、全く支那文字を以て書く上表の如きは、其の作り法《かた》の支那の朝廷に都合よく書かれると謂ふことは當然のことで、南朝時代などに於て日本とか百濟高句麗などが上つた表と謂ふものの、如何にして出來たかは想像するに難くない。
又た船首の官などが置かれた時代は大分海外交通が頻繁で、朝廷の近い處即ち河内と大和との界で、淀川大和川に入つて來る船を檢査する爲にそれが置かれたのであるが、其の以前は其の檢査を遙に遠い九州の入口で行つたので、漢委奴國王の印が志賀
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