島から出たのも其の爲である。三國志の倭人傳に據ると日本より三韓並に魏の帶方郡に往來する者の貨物は、國王の命令として博多附近で檢査せられる。それ故當時海外交通を司る職に在つた安曇連などが、支那から受取つた國王の印を自分の家に預つて置いて、支那と交通する際に勝手に之を押捺して文書を作つたものであらう。勿論此の時の文書は竹簡木簡で、泥で封じた上に印を押捺するのであるから、印が在れば即ち支那へ持つて行つた時證據となるので、文書は簡單でも、或は無くても、よかつたかも知れない。之は後世足利時代に山口の大内氏が、足利家の日本國王の印を使用して明と交通したのと同樣の關係であつて、勿論古代の方は朝廷では其の印が如何に使用せられるかなどには無頓着で居られて、單に貿易の結果のみを考へて居られたのであらう。それ故、此の時代の外交は一言で掩へば通譯外交であり、貿易上の利益さへ有れば其の交通の關係は或は不問に附せられたか、或は明らかに承知せられざりしかであつて、體面上の問題は重きを置かれなかつたのであらう。但し日本文化がだん/\に進んで、時として貴族の間に支那の學問をなさむとする人が出て來ると、此の交通方法の破綻が顯はれることがある。菟道稚郎子が高麗の上表の無禮を發見した傳説などは其の一例であるが、これらは稀に有つたことで、大體は依然として通譯外交が繼續したのである。
然るに聖徳太子は支那の學問をも充分に爲して、海外の事情にも通ぜられたのであらう、通譯外交がいたく國家の體面を毀損せることに氣がついて、通譯が獨占して居つた外交の權を朝廷に收められ、隋に使者を遣はす時には歸化人の譯官、史《ふびと》の輩ばかりに委任せず、小野妹子の如き皇別の名家を使者としてやつて居る。それに國書の如きも隋書に載れる
[#天から2字下げ]日出處天子致書日沒處天子無恙云々
の如きは、其の語氣から察するに、恐らく太子自ら筆を執られたものであつたらしく、全然對等の詞を用ひられたので、隋の煬帝の如き、久しく分離した支那を統一したと謂ふ自尊心を持つて居る天子をして、從來に例の無い無禮な國書だと驚かしめたのである。此の時、日本國書の無禮には驚いたが、海外に居る國の王として不思議なものと思つたらしく、妹子の歸るのに添へて裴世清と謂ふ使者を遣はした。其の時妹子にも返翰を渡し、裴世清には別に國書を授けて遣はしたが、妹子は途中で百濟人に
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