が知られて、既に漢書の地理志に載つた。此等は日本紀の日本年代より謂へば神武天皇の開國以後になるけれども、近來の史家は之を神武天皇以前のこととして認めるに躊躇しない。さうして日本の土地から出る遺物の中にも此の時代と相應するものが出土して此の記事を裏書することが多い。神武天皇以後とも想はれる交通の事實には、後漢の光武帝の中元二年に委奴國の朝貢した記事があり、引き續き安帝の時代に倭面土國王より生口を獻ぜしことが有る。三國時代になると有名な卑彌呼の交通があり、晉代より南朝にかけて歴代交通の記事が各時代の支那正史に載つて居る。
此等の交通を裏書するものとして最もやかましい出土の遺物は、博多の志賀島より出た漢委奴國王の金印であつて、之は當時の漢の制度を考へても外國に遣る印として最も重んじた形迹もわかり、制度にあるが如く蛇鈕であることなども其の確かなものであることを示して居る。國學者並に史家の間には、之が九州から出たので大和の朝廷には關係の無いものと解釋する人が多く、非常に詳しく書かれてある卑彌呼の記事も九州地方の女酋であると謂ひ、又た東晉より宋、南齊にかけて倭國王に與へた官爵がいろ/\あるが、其の一例を謂へば
[#天から2字下げ]使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王
などと謂ふものがあるが、此等も多分日本から任那に派遣せられて居る太宰《みこともち》が朝廷の名を濫用したのであらうなどとも解釋せられて居る。しかし事實は必しもさうではないのであつて、上に擧げた長い官爵名でも、なか/\細かに考へると面白い事實が發見せられるので、日本から稱する時には前に謂ふが如く倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事と稱するが、支那の南朝の方から與へる時には百濟を除いて倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事と稱して居る。之は當時百濟王は日本を經ずして直接に南朝に交通して居つたので、南朝ではそれをば別に百濟王に封じて居るから、日本の方には百濟を入れなかつたのである。斯の如きことは任那の太宰では爲し得べきことではないと考へられる。勿論斯の如き記事が有つたからと謂つて、日本が當時支那の屬國だと謂ふことにはならない。
當時の外交は一種特別の事情があるので、日本の朝廷が海外と交通する時に、其の使者の職を承はる者は何時《いつ》でも支那若しくは朝鮮の歸化人である。最も古い卑彌呼時代でも新羅の歸化人が使者
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