勢で、これは已むを得ないといふことを十分に認めつつ、分類が如何にすべきものかといふことを、根本から研究して居るのである。これらも今日の目録學に取つても非常に有益なものである。
 大體章學誠の學問は以上述べたやうに、今日から考へれば、史學を單に事實を記録する學問とせずに、その根本として原理原則から考へようとしたのである。その考へ方は哲學的であるが、しかしこの人の考へとしては、あらゆる學問は哲學が根本ではなしに史學が根本である。あらゆる學問は史學そのものである。史學の背景のないものは學問にならぬといふ意味で、總ての著述を批判しようとしたのが特別な點である。これらの考へは文史通義を通讀して、精細にその組立ての仕方を考へると判るのであるが、粗雜に讀み去つたのでは、これだけの精密の組立ては判り難いのであるから、支那のこれを崇拜する學者達でも、なかなかこの人の眞意を得ることはむつかしいのであつて、漸く最近に至つて幾らか西洋の學問をした人達によつてその眞價が認められるやうになり來つたのである。で史學のみならず學問の見方から言つて、この人の學風といふものは今に於て生命があるものと考へられるので、ともか
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