て居つて、精神は立派なものであるといふことを主張して、馬端臨の文獻通考の方が劣るといふことを論じた。これが最も乾隆時代の一般の學風とは反對の位置に立つてゐるのである。
 それで章學誠の考では、歴史を研究するのに、整輯排比といふやり方があつて、それは史纂である。參互搜討といふことをするのは史考である。これは兩方とも史學とはいはれない。勿論その整輯排比、參互搜討、共に役に立たんといふことではない。良い著述をする爲めには、材料を並べたつまらない著述の中から、必要なことを取出すのであるから、そのつまらない著述も役には立つのであるが、史學といふものは、その材料を集め、材料を選擇するだけでは史學にならないので、それを如何に取扱ふかといふことが史學である。それで章學誠は獨斷の學といふことを大變尊んだ。ここでいふ獨斷といふのは、材料を考へずに空言空論で獨斷でするといふ意味ではなくして、そのある所の材料を如何に處理するかといふ考へに就ては、一個の自分の頭腦によつてやるべきものであるといふことを獨斷と稱したのである。獨斷の學問の尊いことを頻りに主張してゐる。章學誠は支那の古來の正史の中で、古い史記・漢書その他の歴史は皆家學であつて、親から子に傳はつて、澤山の材料を如何に處理すべきかが十分に考へられ拔いた上で出來上つた著述であるから、それで尊いのであるが、唐時代からして一度に澤山の學者を寄せて、それに色々仕事を分擔させ、又それを總括する人があつて、さうして纂輯する方法で歴史を作るといふことになつてから、著述の一貫した精神がなくなつて、その史學といふものは衰へたといふ考へ方をして居るのである。
 この人の學問にはこの外にも色々な題目に亙つた考へがあるが、殊にその中で史學の分派として最も大切なのは方志の學といふものである。即ち地方志の學問である。地方志の學問には章學誠は古來にない一家の組織立つた考へを有つて居つて、之に就ては當時の有名な經學者戴震などと全く反對の位置に立つて、論難をした。地方志を書くに、紀傳體に志を書くこと、掌故といふもの即ち律令典例などの如きものを書くこと、それから文藝に關することを書くこと、この三つの體裁を備へて、さうして地方志が一般史の材料になるやうに著述をして置くといふことの必要を主張した。當時の地方志を書いた多くの人が、單に地方志を沿革地理を主として書いたのとは違つ
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