/れっか」、第3水準1−87−65](五)[#(五)は自注]が其錯簡を疑つたことが手始めで、朱子などは最自由なる批評を試みた一人である、其後になつて明の梅※[#「族/鳥」、第4水準2−94−39]、清の閻若※[#「王+據のつくり」、第3水準1−88−32]が僞古文の研究を大成したのも朱子に負ふ所が多いのである。朱子の一派の中でも殊に王柏、金履祥の如きは單に僞古文を疑ふのみならず、今文尚書の脱簡を論語孟子の中より發見することを試みたもので、經書本文の批評は此時代に最盛であつた(六)[#(六)は自注]。然るに清朝になつて考證派の經學盛になり、古文今文の議論の噪しきに拘らず、經書の本文に就いて王柏や金履祥の如く疑問を挾むを非常なる罪惡の如く考ふるやうになり、許鄭の學を奉ずる考證家はなるべく經書の本文には觸れない範圍にて研究せんとする傾向を生じて來た。但だ其後經書の本文にも疑問を挾むやうになつたのは嘉慶道光から起つた公羊學派の人々に之れ有るのみで、此派の人々は存外思ひ切つた疑問を經書の本文や其編成の次第にも挾んでゐる。予が尚書の編成に疑問を挾み臆説を試むるに至つたのも、此等公羊學派の人々に促さ
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