るゝ所があつた爲めであるが、公羊學派は勿論清朝の學派中では考證を主としたのでは無く、考據を離れて微言大義から觀察を下したものであつて、觀察には鋭利な所があるが、其判斷の基礎となつてゐるものは全く公羊學説である。予は公羊學説を主とするものでは無く、出來る限り予の既に述べたる如く孔子以後儒家發展の經過を跡づけ、それに由つて尚書の編成の漸次變化したことを論斷したいと思ふのである。然し論述の順序としては最初より予の考へた儒家思想發展史を空漠に説くよりも、やはり公羊學派の人々の疑問を挾んだ點から入つた方が便利であり、且讀者にも了解し易いことを思ふが故に、此方面より論じてみようと思ふ。

 劉逢祿の書序述聞には
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謹案、孔子序周書四十篇、東周之書、惟文侯之命秦誓二篇而已、合而讀之、一爲孱弱之音、一爲發憤之氣、興亡之象昭昭也、春秋書晉人及姜戎敗秦於※[#「肴+殳」、第4水準2−78−4]、公羊子曰、謂之秦、夷狄之也、詐戰書日盡也、穀梁子亦曰、徒亂人子女之教、無男女之別、秦之爲狄、自※[#「肴+殳」、第4水準2−78−4]之戰始也、秦穆不用蹇叔百里子之謀、千里襲鄭、喪師遂盡、晉襄
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